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連歌の歴史



連歌の初めは尼と大伴家持が短歌の上句五七五と下句七七を唱和した『万葉集』までさかのぼりますが、形式として完成するのは後鳥羽上皇や藤原定家が活躍した『新古今和歌集』の時代です。中世の連歌は和歌の世界を理想とし、歌言葉だけを使って、発句に始まり挙句に終わるまで、五七五の長句と七七の短句を交互に百句連ね、その背後に九九首の歌を重ねていきました。この形式を百韻連歌と言います。私たちが連歌と聞いて思い浮かべるのは、こうした連歌です。

連歌は中世を通じて盛んに行なわれましたが、百句もの句をを多人数で詠み継いでいきますと、どうしても同じような発想やイメージが出て来ます。それを避けるために、ルール(式目)がつくられるようになりました。しかし、戦国時代も末になるとルールは煩雑になって、形式に流され、マンネリ化して、溌剌とした創作力を失なっていきます。

それに代わって、江戸時代には機知やユーモアを主にした「俳諧の連歌」が盛んになります。いわゆる「俳諧」で、これも連歌であることに変わりはないのですが、歌言葉だけでなく、俗語や漢語なども自由に使ってよいのです。さらに句数も減らされて、三十六句を詠み継ぐ歌仙連歌という形式が主流になり、ルールも簡略化されました。この俳諧を芸術の域にまで高めたのが松尾芭蕉です。

連歌形式の文学(連歌・俳諧)は、中世・近世の七百年を通じて広く国民各層に親しまれてきましたが、明治の半ば、正岡子規によって「文学に非ず」とされて以来、すっかり忘れられた存在になってしまいました。連歌は多数の人たちが一つの座につどい、共同してつくる「場の文学」であり、「共同の文学」でしたから、個人や個性を絶対化する近代文学の理念と相容れなかったのです。

しかし、近頃では連歌の可能性が新しく見直されるようになってきました。多数の人たちが、一座し、共同しながら、次々と句境を転じて詠み継いでいく楽しさはもちろんですが、そこに実現される個と全体の絶妙の調和、他者との出会いによってもたらされる思いがけない発想やイメージが、現在の私たちには何とも新鮮なのです。現代の連歌は「言葉を媒介にして異質なものを出会わせ、思いがけない発想やイメージを引き出す装置」として新しく甦ったのです。

連歌はインターネットでも可能です。というよりも、インターネットは連歌の世界に全く新しい可能性を開いてくれるかもしれません。そこでは、時空を共有しない座、つまりバーチャルな座においてネットワークにつながる全ての人が連衆(連歌参加者)になるのです。見知らぬ人たちの言葉がスパークし、思いがけない世界が展開するでしょう。




連歌と俳諧

芭蕉が生涯を賭けて打ち込んだのは俳諧であり、その芭蕉が自らの先達として仰いだのが連歌師宗祇です。連歌と俳諧は、どう違うのでしょうか。

私たちは古典として連歌・俳諧の何たるかを中学・高校で習うことがなく、それでいて歴史の授業などで言葉だけは学習しているために、両者を別物のようにとらえている人が多いのではないでしょうか。その字面だけでなく、連歌が中世(鎌倉・室町時代)に流行し、俳諧が近世(江戸時代)に流行したということも、両者を別物と考える一因であったかもしれません。

連歌も俳諧も、最初に詠まれる発句(五・七・五)から最後に詠まれる挙句(七・七)まで、長句・短句を交互に詠み継いでいく我が国独特の文学形式であることに変わりはありません。自ら著名な連歌師でありながら俳諧の興隆に力を注いだ松永貞徳(一五七一〜一六五三)によれば、もともと連歌と俳諧に違いはないと言っています。ただし、中世の連歌が和歌的世界を理想として和歌言葉(和語)をもっぱらにしたのに対し、俳諧は漢語や俗語を使ってもよいことになっています。この、自由に言葉を使える俳諧こそ、連歌本来の姿だったのです。

俳諧は「たわむれ」「滑稽」を意味する言葉であり、古くから詩歌の用語として使われていました。連歌は一句連歌に始まりますが、その当初は余興として詠まれ、機知やユーモアを競うものでしたから、連歌のそもそもは俳諧的なものであったといえましょう。

近世の「俳諧」は、連歌形式の俳諧を意味する「俳諧の連歌」を略したものです。中世の連歌は百句を詠み継ぐ百韻連歌が正式なものでした。それを受けて「俳諧の連歌」も初めは百句詠むのが一般的でしたが、芭蕉のころから三十六句を詠み継ぐ歌仙連歌が主流となりました。当時の人は俳諧が連歌であると意識していたことは間違いなく、こうした連歌形式の俳諧を「連俳」とも呼んだのです。

あえて言えば、本来の連歌は俳諧の連歌だったのであり、連歌形式の文学は芭蕉の俳諧において完成したのです。芭蕉は俳句の祖であるよりも、連歌形式の文学の完成者というべきでありましょう。「異質なものを出会わせ、思いがけない発想やイメージを生み出す装置」としての現代連歌も、そうした成果を引き継いだものです。


連歌と連句

しばしば、連歌と連句はどう違うのですかと質問されます。

一般に連歌と言えば中世の連歌を指します。これは和歌的な世界を理想とし、和歌言葉(和語)で詠まれましたが、近世になると俗語や漢語も自由に使える俳諧(俳諧の連歌)が盛んになります。また、芭蕉以前の連歌・俳諧が百句詠み継ぐのを正式としたのに対し、芭蕉以後の俳諧は三十六句を詠むのが一般的になりましたが、最初に詠まれる発句から最後の挙句まで、長句・短句を交互に詠み継いでいくという形式は同じです。流行した時代や表現手法は変わっても、共に連歌形式の文学であることに変わりはありません。むしろ、近世の俳諧は中世以来の連歌形式の文学を完成させたものと言えましょう。

ところが、こうした連歌形式の文学に対して、正岡子規は西洋近代文学の視点から「文学に非ず」と否定してしまいました。国を挙げて近代化に突き進むという時代の波に乗った子規の連俳非文学論によって、七百年にわたって国民的文学であった連歌・俳諧はたちまちのうちに忘れ去られ、それに替わって俳句が近代の国民的文学として興隆することとなりました。

これに対し、子規と同じく松山出身で、俳句の弟子でもあった高浜虚子は俳諧好きでした。しかし、師が「文学に非ず」と断定した俳諧をそのまま擁護するわけにもいかず、初めはそれを「聯句」と言い替え、子規没後には「連句論」を書いて「聯句」を「連句」に書き替えて「連句」擁護論を展開しました。これが一般的となり、俳人はもっぱら「連句」と称するようになったのです。それに追随して、文学研究者なども俳諧を「連句」と呼ぶようになって現在に至っています。

しかし、虚子が「連句論」において連俳(連歌形式の俳諧)を「連句」と呼び替えたのは、子規が発句を「俳句」に改めたのに対応してのことです。つまり、連俳を「文学に非ず」とする近代文学の立場からの命名なのです。それも、中世の連歌、近世の俳諧、近代の連句と呼ぶなら分からぬでもありませんが、近世の俳諧まで連句と称し、「芭蕉の連句」などと言うには、いささか抵抗があります。

この連歌会では連歌形式の文学を総称して「連歌」と呼ぶことにしております。


発句と俳句

連歌は共同の文学であると共に、座(場)の文学です。多数の人が特定の時空を共有しながら、連歌一巻を巻いていきます。その最初に詠まれる句が発句(ほっく)です。

南北朝時代に連歌の理論的基礎を築いた二条良基(一三二〇〜八八)は「発句は最も大事の事なり」(連理秘抄)と言っています。発句は何よりも大切であり、巧みに趣向をこらして詠まなければならなかったのです。また座に招いた大事な客などが詠むものとされ、座へのあいさつの句でもありました。

良基は「発句に時節の景物にそむきたるは返す返す口惜しき事なり」「発句はまず切るべきなり」(同前)とも言っています。「時節の景物」は今日の「季語」に当たります。さらに、発句を切るためには「や」「かな」「けり」などの「切字」も不可欠です。連歌の発句に季語・切字を要するというのは、鎌倉時代からの約束事でした。

発句は、連衆へのあいさつであると共に、連歌の座とそれを包む自然への付句でもあります。あいさつの初めに天候を話題にするように、発句には時節の景物が欠かせないのですが、それも、その季節にふさわしいものでなければなりません。しかも発句は孕み句(前もってつくる句)を嫌い、その場で、即興でつくることが求められるので、いきおい写生の句になります。

発句は切字によって句としての独立性を担保されていたので、芭蕉のころから発句を独立して詠む風が強くなってきます。発句が座を離れて詠まれると、次第に、写生の句であるよりも作品としての完成をめざして観念的につくられる句になっていき、季語は文学的な約束事になっていきました。

こうした傾向が顕著になった事態を受けて、正岡子規は付句を排除することによって発句を近代文学の一ジャンルとして独立せしめ、それを俳句と称したのです。その際、発句に不可欠だった季語・切字も取り入れられました。

俳句はあくまで近代文学です。独立した一個の作品として作者の個性で閉じられているのです。それに対して、発句は付句を前提にして詠まれるもので、連衆(連歌の参加者)に対して開かれていて、付句による解釈の変更を許容するものでした。

異質なものを出会わせる装置としての連歌

連歌の本質は異質なものを出会わせる装置だというところにあります。連歌を興行する場への付けであり、あいさつの句でもある発句が、自らのうちに切字を要し、それによって一句の中に異質なものの出会いを保証しているのも、その現われでしょう。芭蕉はそれを「ほ(発)句は物を合はすれば出来(しゅったい)せり」(去来抄)と表現しています。

  この秋は何でとし寄る雲に鳥

この芭蕉の句は、「雲」と「鳥」を取合せ、そこに芭蕉の思いを取合せたものです。伊賀における蕉門の中心的存在であった服部土芳の『三冊子』によれば、芭蕉は腸を切り刻むようにして「雲と鳥」の句にたどりついたといいいます。「この秋は何でとし寄る」という述懐に、「雲と鳥」という異質の景を出会わせることによって、この句は深い余情と精神性を獲得したのです。

連歌における異質なものの出会いは、端的にイメージを表出する二句(前句と付句)の照応によって保証されるのですが、現代短歌においても、こうした手法がひそかに使われています。たとえば、斎藤茂吉の亡き母への絶唱として名高い歌。

  のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて 

  足乳根(たらちね )の母は死にたまふなり

客観的な叙景の句である上句に対して、母を亡くして悲嘆慟哭(どうこく)する茂吉の声が、見事な付句になっているのが分かるでしょう。「のど赤き玄鳥」と「母の死」という異質なものの出会いが、ひりひりするような痛みを伴い、そこに伝統的な民族精神を噴出させながら、死の何たるかを突き付けてくるのです。個々の句のみで、こうした情感は得られません。あるいは、寺山修司の次のような歌。

  マッチ擦(す)るつかのま海に霧ふかし

  身捨つるほどの祖国はありや

コラージュの手法によって、叙景の上句に述懐の下句を付けたかたちになっています。この歌の背景には、宮澤赤黄男(かきお)の俳句「一本のマッチをすれば湖は霧」「めつむれば祖国は蒼き海の上」があると指摘されています。一歩間違えれば剽窃(ひょうせつ)にもなりかねないのですが、宮澤の俳句を二つ並べても寺山の歌の世界にはなりようがありません。連歌的手法の見事な一例と言えるでしょう。