戻る     高城修三連歌会の軌跡                                                                                                 (敬称略)

一九八九年 八月、奈良巻向山の中腹に古民家を得、二年をかけて独力で改修、それを弓月庵と号した(高城修三)。

一九九一年 二月より九三年一月まで、産経新聞にスサノヲから昭和天皇の御製までの歌を論評した「歌ありき」を連載(二〇〇三年に『百歌繚乱―憶えておきたい日本の歌』として出版)、その過程で連歌の重要性に覚醒し、これ以降、弓月庵にて連歌の研究をすすめる(高城修三)

一九九四年 四月、奈良巻向山「弓月庵」の囲炉裏端において弓月庵連歌会を興行する(これ以降、二〇〇八年まで年に一〜四回興行。高城修三の他、主な連衆は高橋松山・坪内稔典・茨木和生・倉橋健一・城貴代美・三井葉子・石田博・木田安彦・廣青隴・吉田和男・小川侃・森口邦彦・今野和代・高橋則子・藤本真理子・山田喜代春・宮内憲夫など関西の文学者・文化人・芸術家)。六月、高城修三、京都造形芸術大学の表現演習において歌仙連歌を実習する(これ以降、二〇〇一年まで毎年、歌仙連歌の実習指導をする→瓜生山連歌会)。一二月、京都会館別館にて京都芸術文化協会主催の文芸シンポジウムで連歌の可能性を論ず(高城修三)。

一九九五年  四月、木田安彦を客に迎えて弓月庵連歌会を興行。五月、倉橋健一・坪内稔典らを迎えて弓月庵連歌会を興行。 八月、「二十一世紀の関西を考える会」で連歌について講演(高城修三)。『あうろーら』一九九五・秋号から一九九七・春号まで七回にわたって「可能性としての連歌」を連載する(→二〇〇四年『可能性としての連歌』刊行)

一九九六年  一月、高城修三、『かるら』同人と半歌仙連歌興行(→以降、二〇〇一年までかるら連歌会)。三月、『塔』の永田和宏と短歌・連歌について対談(高城修三)。六月、坪内稔典主催の「詩歌フォーラム」に河野裕子らと出演し、連歌を語る(高城修三)。一〇月、茨木和生・倉橋健一らを迎えて弓月庵連歌会。

一九九七年 一月、さいたま県立芸術劇場において二十一世紀の詩歌の可能性をさぐるシンポジウムで金子兜太・加藤克巳・黒田杏子らと論争し、以降一九九八年三月まで四回にわたったシンポジウムで連歌論を展開する(高城修三)。この年以降、二〇〇〇年ころまで古代史に没頭し、連歌会が少ない(高城修三)。

一九九八年 七月、『関西文学』二号に「文学はどこに向かうか」と題して連歌の可能性を論考する(高城修三)。

二〇〇一年 一月、高松市「花樹海」にて初めてのさぬき連歌会(世話人・池田孝平)、以降年に二〜三回興行。三月、近江文学者の会を主宰し、その会席で半歌仙を巻く(高城修三)。七月、京都造形大学の社会人学生達と銀閣寺「中東」にて連歌会(世話人・岡本万貴子)を興行。一一月、吉田山荘にてじゅらく連歌会(世話人・税所涼子)を興行する(三回目以降は高橋エルが世話人を継承)

二〇〇二年 四月、高橋エルの尽力によりインターネット上で「高城修三の連歌会」を興行。第一巻「あでやかに」の巻は一〇月満尾。以降、年二〜三巻を興行する。一〇月、面庄別邸にて連歌会、これが月待ち連歌会(世話人・岡本万貴子)の発端となる。一一月、東京神田にてなまこや連歌会(世話人・中野幹三)。翌日、新宿吉兆にて高城修三・中野幹三・池田孝平による三吟半歌仙。一二月、白樺月次連歌会始まる(世話人・片山典一)も、二〇〇三年六月で中断し、二〇〇七年より再開。

二〇〇三年 六月以降、二〇〇四年三月まで瀬戸内海放送で視聴者から付句を求めるTV連歌を興行する(高城修三)。京都の御所南小学校にて六年生に連歌の実習指導、以降、二〇〇五年まで(高城修三)。九月、東福寺退耕院にて月待ち連歌会。絵連歌の制作が始まる(世話人・岡本万貴子)。一〇月、高城修三、東京日本橋の江戸連において「芭蕉と連歌」の講演。

二〇〇四年 四月、大河内山荘にて月待ち連歌会興行(客・木田安彦)。京都新聞カルチャーで連歌講座を始める(高城修三)。五月、大阪ニューオオタニ「808」でじゅらく連歌会(世話人高橋エル)、談林派発祥の地で初めての連歌会。東京さぬき倶楽部で大江戸連歌会(世話人・池田孝平)。九月、高松の栗林公園内の掬月亭にてさぬき連歌会(世話人・池田孝平)。一一月、『可能性としての連歌』刊行。出版記念会で連歌について講演。石塀小路の「和田」にて絵連歌展、山田喜代春の版画と高城修三・城貴代美・宮内憲夫・岡本万貴子の句を交互に付けた。宗匠・高城、執筆・岡本)。

二〇〇五年 一月、日中両語文芸誌『藍』に「連歌再考」を寄稿する(高城修三)。二月、さぬき連歌始(世話人・池田孝平)に岡市友利・平井二郎ら一三〇名の出席(〜二〇〇九年)。四月、白沙村荘において月待ち連歌会(客・竹市明弘)。この月より四国新聞紙上で「連歌を楽しむ」を一年間連載する(高城修三)。後藤芝山先生追善連歌会興行(亭主・後藤伸雄)、以降毎年四月に興行。NHK俳句を担当する茨木和生のゲストとして出演し、連歌について語る(高城修三)。六月、京都講座連歌会(京カル連歌会)を旧九条邸の拾翠亭にて興行(世話人・嶋岡純子)。七月、草津で「連歌と戦国大名」と題して講演(高城修三)。八月、宗祇の里連歌会(世話人・城貴代美)を能登川町伊庭にて興行(二〇〇九年より太郎坊宮)。九月、徳島で眉山連歌会を興行(世話人・長尾哲見)。

二〇〇六年 一月、京都「はり清」に永田萌を客に招き月待ち連歌会(世話人・岡本万貴子)。六月、源内先生記念館にてエレキテル連歌会を興行する(世話人・池田孝平)源内は志度で談林派の連歌に親しんだ。京カル連歌会をきらら連歌会と改め、東京むらさき連歌会の高木登志子を客に迎えて「菅公の」の巻を興行する(世話人・小林孝子)。一二月、南北朝時代以降に連歌の神とされた菅原道真を祀る天神さんの舞楽殿で北野天満宮奉納連歌会を興行(世話人・武藤雪子)、廣青隴による朗詠が披露される。京都新聞が大きく報道する。

二〇〇七年 三月、さぬき連歌会に一方ならぬ尽力をいただいた香西俊樹の逝去を悼み追善連歌を興行する(世話人・池田孝平)。京都連歌講座(きらら連歌会)が大原にて一泊二日の春期合宿、歌仙「春浅し」と半歌仙「名残雪」を巻く(世話人・廣瀬春雄)。四月、神戸女子大学のオープン講座で高城修三の連歌講座を開催(二〇〇九年三月まで)。また、中條文化財団の晴松亭にて高松連歌講座を開始する(世話人・栗生みどり)。六月、谷崎潤一郎の旧蹟石村亭(京都)にて高城修三連歌会を興行し(世話人・武藤雪子)、廣青隴による朗詠が披露される。毎日新聞に大きく報道される。同じく谷崎の旧蹟倚松庵(神戸)にて倉橋健一を客に迎えて初めてのKOBEみなと連歌会を興行(世話人・村尾美恵)。七月、高城修三が京都の冷泉家において冷泉貴実子と対談し、連歌・短歌について語る(→京都シティグラフ二〇〇七)。晴松亭にて初めての晴松亭連歌会を興行する(世話人・栗生みどり)、以降四ヶ月ごとに連歌興行。白樺月次連歌会を再開(世話人・武藤雪子のち嶋岡純子)。一〇月、高松市塩江にて土井陽子を客に「あ・うんの数寄連歌会」を興行し、歌仙連歌「草紅葉」の巻を得る(世話人・中條晴之)。芦屋市民センターで一一月まで三回にわたり連歌の講演(高城修三)。

二〇〇八年 三月、きらら連歌会春期合宿(奈良)において、肺がんのため逝去した小林孝子を偲んで、武藤雪子の弔辞の後、半歌仙追善連歌「逝きし人」の巻と歌仙「奈良町の」の巻を得る(世話人・竹本俊平)。四月、眉山連歌会を興行する(世話人・長尾哲見)。六月、川端康成の旧蹟京都「泉川亭」にて泉川亭連歌会を興行(世話人・武藤雪子)。廣青隴の朗詠披露。七月、KOBEみなと連歌会が神戸北野天満神社で奉納連歌会興行(世話人・小堀由紀江)。徳島北高等学校の文芸部員に連歌指導をし、表八句を巻く(高城修三)。八月、信楽で花笑庵連歌会興行(世話人・奥田博土)。高城修三連歌会が多武峰法楽連歌に向けて瀬戸内海の本島で合宿するも、高城修三が参加者の覚悟を詰問して翌朝、単独離島。九月、宝鏡寺で月待ち連歌会(世話人・岡本万貴子)。一〇月、奈良の談山神社で五〇〇年ぶりの十三重塔の大改修を祝して多武峰法楽連歌を興行する。廣青隴による朗詠が披露され、執筆奥山満里子による懐紙が奉納された。一一月、高城修三が本島での無作法を詫び、弓月庵にて最後の連歌会を興行する。一二月、『月刊公募ガイド』で誌上連歌を開始(高城修三)。

二〇〇九年 四月、これより神戸連歌講座を夙川の夙水苑に移す(世話人・小堀由紀江)。長く高城修三連歌会の舞台となった弓月庵を処分する(高城修三)五月、松尾大社法楽連歌(世話人・奥山満里子)。八月、インターネット連歌会の懇親会を平安会館で開催する。九月、宗祇の里連歌会を太郎坊に移して興行(世話人・城貴代美)。一〇月、白沙村荘において月待ち連歌会(世話人・岡本万貴子)。一一月、大阪で通天閣連歌会を興行(世話人・今野和代)。春日井市民文化財団にて二回にわたり小学生に連歌を指導し、表八句を巻く。一二月、連歌講座や連歌会が多くなったことから、相互の交流の場が欲しいとの声が上り、高城修三連歌会の世話人会を設けて、二〇一〇年より京都で連歌始を興行することになる。

二〇一〇年 一月、第一回高城修三連歌会世話人会二月、高城修三連歌会連歌始、参加者四五名(円山公園「いそべ」)。三月、玉藻城披雲閣にて晴松亭連歌会。四月、宇多野ユースホステルにてきらら連歌会春季合宿、永田萌氏も参加し、満開の桜を満喫しながら半歌仙を巻き、翌日は松田弘子氏送別の歌仙「友送る」の巻を巻く。月待ち連歌会が小浜で開催される。六月、初めてのむらさき連歌会が高木亭で開催され「武蔵野を」の巻をえる。七月、高城修三が日本橋の江戸連にて「連歌の可能性」と題して講演。翌日、六年ぶりに東京さぬき倶楽部にて大江戸連歌会を開催する。九月、東近江市の太郎坊宮に西澤市長を客に迎えて宗祇の里連歌会を興行。十月、Web連歌会の常連ぽぽなさんを迎えて祇園RAKURAKUにて月待ち連歌会興行。十一月、きらら連歌会が亀岡市と協賛で大本教万祥殿にて明智光秀発句の愛宕百韻連歌を再現興行。そのあと楽々荘にてきらら連歌会を興行する。また、来年三月の愛宕百韻連歌興行に向けて「今昔を」の巻を巻き始める。十二月、グッゲンハイム邸にてKOUBEみなと連歌会を興行。二回目の通天閣連歌を「のこされ島」にて興行。

二〇一一年 一月、第二回高城修三連歌会連歌始、発句を門川京都市長にいただき表八句興行、参加者五九名(京都平安会館)

「高城修三連歌会」の興行の記録については「ご案内」参照。