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    連歌の楽しみ方


連歌の本質は「変化」にあります。芭蕉はそれを「新しみ」とか「一歩も後に帰る心なし」と表現したのです。同じような発想・イメージ・言葉の繰り返しを「輪廻」と言い、これを避けなければなりません。また、連歌の付けは即興を原則とします。こうしたことさえわきまえておけば、ルールにこだわる必要はありません。

ただし、連歌一巻を巻くにあたって、その変化を保証し、乱脈に陥るのを避けるために、この連歌会では以下のような最小限のルール(式目五定)を定めています。分かりにくい語句については「連歌の基礎用語」を参照してください。三十六句詠み継ぐ歌仙連歌を定式にしていますが、時に応じて十八句の半歌仙連歌や二十四句の花信風連歌も可能です。

「式目五定」
1 変化を旨とすべし。
2 発句は季語・切れ字を要す。
3 脇は「体言止」、第三は「て止」とす。
4 春・秋・恋の句は二句以上五句以内とす。
5 月・花の定座を置く。


簡単に説明しておきましょう。1が連歌の生命です。その変化を保証するために式目があります。2、発句はその場に付ける挨拶の句ですので、当季となります。この発句を独立させたものが近代の俳句です。3の脇は発句に応える句で、発句と同季になります。第三は大きく詩境を転じる句で、「〜て」などで止めるのが一般的です。以上の三句はできるだけ形式を踏んで詠み、その後は変転果てしない世界に遊んでください。4の春・秋・恋は二句以上、できれば三句ほど続けてください。5の定座では「月」「花」という言葉を詠み込まなければなりません(「月と花の句」参照)。

付句をする方法には、「出勝ち」と「膝送り」の二つがあります。連衆が数人を超えるような場合は出勝ち、それ以下の場合は膝送りが適しています。最初の一巡だけ膝送りにして、後は出勝ちにするという方法もあります。定めのない場合や問題句の処理は、宗匠の差配に任せればよいでしょう。

要するに、最初に詠まれる発句(長句=五七五)から最後の挙句(短句=七七)に至るまで、短句・長句を交互に付けて、転変していく連歌の世界を楽しめばよいのです。その場合、付句が打越(前句の前の句)と同じ発想やイメージでは堂々巡りになってしまいます。打越から転じながら、前句に付けていかなければなりません。ここに連歌の面白さがあり、また難しさもあります。

付句する場合、前句に付き過ぎると変化の妙が損なわれて面白くありません。かと言って前句から離れ過ぎると、訳が分からなくなってしまいます。連歌の句は、長句にしても十七字、短句なら十四文字ですから、多様な解釈が可能です。すでに詠まれた前句をどう新しく解釈し直すか、斬新な発想、思いがけないイメージの創出が問われるのです。

連歌は経験を積んだ人を宗匠に招いて興行すると、面白さが倍増します。連衆は数人から十四五人が最適です。慣れてくると宗匠なしでも可能になります。不特定多数の人が連衆として参加するインターネット連歌では、寄せられた付句から宗匠が付け味のよい句を選択することになります。




月と花の句

連歌では、ただ「月」といえば中秋の名月、「花」といえば桜をイメージします。

連歌において月と花の定座はだれもが詠みたいと思うところですが、その場合、注意しなければならないのは、「月」「花」という言葉を句の中に詠み込まなければ「月の句」「花の句」とはならないことです。ただ「さくら」とだけ詠んでも、それは「花の句」と見なされません。ならば、「月」「花」という言葉さえ句の中に詠み込めばよいのかと言えば、そうでない場合もあるので注意を要します。

月の場合、正月・早苗月・神無月などは「月並の月」と称し、これは月の句としません。同様に、臨月・月曜日・月見草なども月の句にはなりません。こうした句が出ると、月は面に一つしか詠み込めないので、秋の季続きに月が詠めないことになります。これを「素秋(すあき)」といいます。

月は四季のいずれに出すことも可能なので、時には秋以外の月が出ることもあります。こうした場合にも素秋ができることになりますが、やはり秋にこそ月を詠みたいものです。その便法としては、月の定座で「有明」「十六夜(いざよい)」など「月」を隠して詠むことも可能です。

花の句では、「正花(しょうか)」が問題になります。俳諧では、そのものの華やかさを賞美する心をもって詠む花を「正花」と言い、その最たるものが桜なのですが、花嫁・茶の出花・花鰹・花火なども正花とし、花の句に含めています。それに対して、浪の花・糀の花・火花などは「似せものの花」として正花とはしません。花を限定してしまう「桜の花」「梅の花」なども正花とは見なされません。

しかし、本居宣長の歌う「山桜花」に、そのものの華やかさを賞美する心がないでしょうか。「線香花火」というとき、そこに賞美する心があるでしょうか。いちいち何が「正花」と定めるのではなく、その時々によるべきで、それも比喩的な使い方ではなく実際の花に限るべきでしょう。

ただし、「花」は折りに一つしか詠めません。冬に「火花」が散り、秋に「萩の花」がこぼれれば、春の季続きに「花の句」が詠めなくなってしまいます。そうした場合は、ただ「さくら」などとして詠み込むか、「花」を欠いた春とするしかありません。これを「素春(すはる)」といいいます。

いずれにしても「月」と「花」は心して詠まなければなりません。
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連歌の付け方
中世連歌の付け方

連歌は打越を捨てて前句に付けていきながら、先へ先へと転変していく連歌世界を楽しむものです。そこでは、いかに前句に付けおおせるかということが常に求められます。付かなければ連歌にならないのです。芭蕉に言わせれば「俳諧の連歌といふは、よく付くといふ字意なり」(三冊子)ということになります。

付合は連歌を巻くに当たって最大の関心事でしたから、ことに付合を重視するようになった南北朝以降、多くの論書が書かれ、付句の案じ方やその手法について様々に論じられて来ました。主なものを紹介しておきましょう。

連歌の理論的基盤を打ち立てた二条良基は、『連理秘抄』(1349)において、十五の付合の手法を挙げています。その中には「本歌」「名所」などの扱い方も含まれており、付け方としては、見たままに付ける「平付」、縁語を駆使して前句と切り組んだように付ける「四手(よつで)」、風景などを付ける「景気」、縁語や掛詞で付ける「詞付(ことばづけ)」、意味や心情で付ける「心付」、表面ではなく裏で付いている「埋付(うずみづけ)」、気分や情趣で付ける「余情」、春に対して秋のように相対的に付ける「相対(あいたい)」、対立的否定的に付ける「引違(ひきちがえ)」などが見えています。

室町時代に和歌・連歌の同一論を提唱した心敬は、和歌の考えを援用して、連歌の付け方に「親句(しんく)」「疎句(そく)」を説いた。親句は前句の姿や言葉をたよって付けるのに対し、疎句は前句の思いや心情の曲折をとらえて、その理由や背景を具体化して付けるものでした。これは詞付と心付に対応するでしょう。心敬の心付の一例を『新撰菟玖波集』から挙げておきましょう。

   恨(うらみ)ある人やわすれて待たるらん

おもひすつれば雨の夕暮

字面を追っただけでは何のことだか分からないかも知れませんが、恨みある人がその恨みを忘れて待っているのだろうかという前句に、視点を変えて、恨みある人の心の内を付けたのです。一方、詞付には次のようなものがあります(初心求詠集)。

    うらみても猶なぐさみにけり

松原のしほひにかゝる旅の道

うらみ(恨み)を「浦見」に取りなして、その縁語である「潮干」を導き出し、前句を海沿いの旅の述懐と見なして付けたものです。

詞付・心付・匂付

連歌の伝統的な付け方としては「詞付(物付)」と「心付」が知られています。中世連歌から近世俳諧への橋渡しをした松永貞徳は、その古典的教養を駆使して、縁語や掛詞による付け方を得意としました。こうした貞門派の詞付に対して、大坂天満宮連歌所宗匠であった西山宗因は、前句の全体的な意味や風情をつかんで、それに応じた句をつけていくという伝統的な連歌の心付の手法を俳諧に活用し、奇抜な発想による自由軽妙な付句を実践して時代の寵児となりました。

貞門派の詞付、談林派の心付に対して、芭蕉は前句から自ずと立ち昇ってくる匂い(気分・情趣)を感じ取り、それと匂い合い響き合うようにして付合せる手法を推奨した。これを「匂付」といいます。「うつり(移)」「ひびき(響)」「くらゐ(位)」「おもかげ(俤)」などは、その匂付の諸相を言ったものです。

例を挙げれば、「移」は「月見よと引起こされて恥づかしき/髪あふがする羅の露」のように、前句に宮中の女房が恥じているさまを感じ取り、その匂いを移して付句するものです。「響」は「くれ椽に銀土器をうちくだき/身細き太刀の反るかたを見よ」のように、前句に対して打てば響くように付けるものです。「位」は前句の人物がかもし出す品格に応じた付けをするもので、「尼になるべき宵のきぬぎぬ/月影に鎧とやらを見透して」は前句の女性を武家の妻と見立てた付句です。「俤」は「草庵に暫く居てはうち破り/命嬉しき撰集の沙汰」のように、西行などと直接には言わず、それを匂わすように面影に置いて付けるものをいいます。

こうした芭蕉の匂付は、良基が『連理秘抄』に挙げた余情の付けをさらに深化させたものといえるでしょう。

詞付・心付・匂付は付け方というよりも付けの案じ方(付ける趣向)であり、芭蕉は付け方について「付きの事は千変万化すといへ共、せんずる所、唯、俤と思ひなし、景気、此三つに究まり侍る」(三冊子)としています。「思ひなし」は前句をしっかりと受け止めたうえで、それを突き放し、新たな場面を推量して付ける手法です。景気は景色や状景を付けるものです。

四道と七名八体

付合の手法としては、戦国時代に連歌師谷宗牧(〜1545)が唱えた「四道」が画期的です。「四道」は付句の仕方を仏教の四道になぞらえて四つの基本形に類別したもので、前句に近縁の意想を添える「添(そう)」、前句を説明・展開する「随(したがう)」、前句から場を一転させる「放(はなつ)」、前句と逆方向に付ける「逆(さかう)」があります。現代連歌にも通用する区分です。

芭蕉十哲にも数えられる各務支考(16651731)は伝統的な案じ方・付け方を独自に整理して「七名八体」を説きました。その案じ方には「有心(うしん)」「向付(むかいづけ)」「起情(きじょう)」「会釈(あしらい)」「拍子」「色立(いろだて)」「遁句(にげく)」の「七名」があり、付け方には「其人(そのひと)」「其場」「時節」「時分」「天相(てんそう)」「時宜」「観相」「面影」の「八体」を挙げています。

案じ方について簡単に説明しておきましょう。「有心」は前句に深く心を配って直に付句するもので、これに対して「向付」は前句から視点を転じた付けです。「起情」は叙景・叙事の句から心情を起こして付けます。「会釈」は打越との関係が難しいときなど前句の其人・其場に付随するものをあしらって付けるもので、一巻を巻くに当たって最もよく使われます。「拍子」は響の付けに同じ、「色立」は色彩の無い句が続くような場合に明瞭な色を付けてやるものです。「遁句」は時節・時分・天候・景色などを軽くあしらって先につなぐもので、会釈よりも軽く、中世連歌ではこれを「遣句(やりく)」と言いました。

案じ方と付け方の区別はあいまいであるし、付句には幾つかの手法が兼用される場合もあります。実際に付句するに当たっては、あくまで便宜的なものと心得ておけばよいでしょう。

宗牧の「四道」を除けば、これまで概観してきた連歌・俳諧の付合の手法は、実際の付合において見られる特徴的な手法を列挙したものであり、何らかの原則を立てて類別したものとは言い難いものです。ただ、付句を実践するに当たって、ことに付句の難しい場面などでは、「ここは会釈で」「ここは色立にしよう」などと効果的に使うことができますし、詩境を転じるにもすこぶる有用なものが少なくありません。

付合の手法

付句をするに当たっては、前句の世界を存分に受け止めて、そこに付けながら、いかに転じていくか、ということが不断に求めらます。それによって「異質なものを出会わせ、思いがけない発想やイメージを生み出す装置」としての連歌が可能となります。そこにおいては能勢朝次の言う「端的に言い切られた二句(前句と付句)の照応」が不可欠なのです。

連歌は付句をすることによって、連歌の進行と共に実現される現実の不可逆的な時間と虚構の表現時間を創出していきます。その二つの時間に身をゆだねることによって、連衆は連歌世界を表現―了解することができるのです。連歌は映画・マンガ・小説などと同じく時間芸術です。連歌が音楽やスポーツに似ている理由も、そこにあります。

連歌は一貫した主人公も筋もない小説のようなものです。井原西鶴は独吟を得意としましたが、そこに特定の主人公、たとえば色道修業のために諸国を遍歴する世之介を案出すれば、『好色一代男』の世界が開けるのです。付けながら転じていく連歌の付合は、小説における場面の転換や視点の転換に似ています。マンガなら、コマからコマへの、映画ならショットからショットへの展開であり、それが連歌の前句と付句の関係になります。

寺田虎彦は「あらゆる芸術のうちで其の動的な構成法に於て最も映画に近接するものは俳諧連歌であらう」(映画芸術)とし、「くれ縁に銀土器を打ちくだき/身細き太刀の反るかたを見よ」という響の付けに対して、「試みに映画の一場面に此の二つのショットを継起せしめたと想像すれば、その観客に与へる印象は恐らく打てば響くが如くであるに相違ない」(同前)と言っています。ショットからショットへの変化はカメラの視点の変化に他なりません。

連歌の付合の手法を考察するに当たっては、「付け方」よりも「転じ方」つまり場面や視点の転じ方に重点を置いた方が理解しやすいように思われる。そこで、視点の空間的な転じ=「添加」、視点の時間的因果的な転じ=「展開」、視点の対向的な転じ=「対向」、視点そのものの転じ=「転換」という四つの手法に類別して検討してみよう。

「添加」の手法

前句が表現した世界へのまなざし(視点)を空間的に移動して付句するのが「添加」の手法で、転じは前句と同一の空間に限られますから、あくまで視覚上の転じということになります。宗牧の「四道」に見えている「添」がこれに近いものです。伝統的な案じ方で言えば、会釈・色立・遁句などが含まれるでしょう。付合の手法としては最も一般的なものです。

一例として、次のような前句で「添加」の手法を考えてみましょう。

婆さまがあくびしている昼下がり

まず、この前句の世界をじっくり鑑賞しましょう。すると、端的に言い切られた前句の世界の中に、いまだ表現されてはいないが、そこにあってしかるべき様々なイメージが浮かび上がってくるでしょう。婆さまはどのような人なのか。姿勢や服装はどうなのか。場所はどこなのか。身の回りには何があるのか。時分は「昼下がり」だが、季節はいつなのか。天候はどうなのか……。それを前句の絵柄に付け加えればよいのです。あくびをしている婆さまのそばに誰かを登場させるのも面白いでしょう。

この前句を、カメラから覗いた映像と見てもよいでしょう。それをズームインすれば、婆さまの帯の柄やほくろがくっきりと見えるかもしれません。足下にピントを合わせたら猫がいるかもしれません。また、前句の映像をズームアウトすれば、茅葺屋根の縁先に婆さまが居るのが見えるかもしれません。さらにカメラを引けば、背景の山々や春の空が見えてくるかもしれません。あるいは高級リゾートホテルのロビーで、婆さまはあくびをしているのかもしれません。

付句をする場合、打越や句の続き具合も考慮しなければならない。たとえば、打越にも人が出ているなら、付句には婆さまの周りの道具や風景を添えてやればよい。色彩に乏しい句が続いていたなら、婆さまの服装や持ち物に思い切って鮮明な色を付けてみる「色立」も面白いでしょう。

ここで言う「添加」の手法は、あくまで視点を動かすという視覚上の転じです。しかもそれは、カメラのファインダーから前句の世界を覗いているようなものですから、視点のたち位置が変わることはありません。

「展開」の手法

前句の世界を時間的因果的に転じていくのが「展開」の手法です。この場合、「添加」と同じく視点の立ち位置は変わりません。これは宗牧の言う「随」に近いものです。『俳諧大辞典』が「前句の意想・心情表現の曲折をとらえて、そのよって起る理由・意想の成立する場などを、具体的に解明する付け方」と説明している「心付」も、「展開」の手法に他ならません。支考の言う「起情」「拍子」なども、時間的因果的な要素が強ければ、これに含まれます。

添加の場合と同じ前句で「展開」の手法を具体的に考えてみましょう。

添加が視点の空間的移動であったのに対し、「展開」の手法では、同じ場面ながら時間的変化や因果関係が問題になります。時間的な付けは、小説の技法で言えば、「それからどうなるの?」と先へ先へと尋ねていく「ストーリィ」の手法に同じです。このあと何が起るのか。婆さまはどうするのか。つまり、時間的な延長線上に付句をすればよいのです。孫から携帯電話がかかってきてもよいし、見知らぬ訪問者があってもよいでしょう。「くれ縁に銀土器を打ちくだき/身細き太刀の反るかたを見よ」という響(拍子)の付けなども一瞬の時間的経過を追って付けたものと考えてよいでしょう。

因果関係とは時間の一つのありようです。因があって果があります。結果の原因を問うのは時間をさかのぼって付句をすることに他ならず、小説で言えば、「なぜ?」と次々に原因を追究していく「プロット」の手法に同じです。なぜ、婆さまは昼下がりにあくびをしているのか。孫を連れてきた娘夫婦がようやく帰って安堵したのかもしれません。口うるさい爺さまが碁を打ちに出かけたのかもしれません。

心の曲折に踏み込んで前句の世界を具体的に解明しようとする「心付」の手法も、付句の作者の視点で心の因果関係を解きほぐすことに他なりません。ただし、それが前句の単なる説明になってしまっては面白くありません。斬新な解釈、前句にはない新しみを打ち出さなければなりません。

叙景の句から心情を起こして付ける「起情」も、作者の視点を変えないで外界から内界へ転じるものであり、「展開」の手法になります。「添加」が視覚的な付けであるのに対して、先に例示した前句に「金木犀のほのかに香る」と、臭覚・聴覚・味覚などの感覚で付けるのも、「展開」の手法に含めてよいでしょう。

「対向」の手法

これまで見てきた「添加」と「展開」の手法が視点の立ち位置は変えずに、空間的な転じ、時間的因果的な転じをするのに対し、「対向」の手法は前句の視点を対向する視点に変えるものです。支考の「向付」も同じです。分別の観点が異なるので、宗牧のいう「逆」とは必ずしも一致しません。『連理秘抄』に挙げられている「相対」や「引違」などは、言葉の上だけでなく、視点の対向的な変更を伴なえば、「対向」の手法ということになります。

視点の主は、作句者か登場人物かということが問題になります。先の例句「婆さまがあくびしている昼下がり」で考えてみましょう。  

この句における視点は、あくびしている婆さまを見ている作句者であり、その視点を一座している連衆が共有するのです。「添加」や「展開」の手法では、一座の連衆が共有している視点と同じ立ち位置で付句をします。それに対して、「対向」の手法では、連衆の視点に対向して、婆さまの視点で付句をすることになります。たとえば、前句のあくびを人生にあきあきした心と見なして「早う行きたい迎えはまだか」と婆さまの独白あるいは心情を付けるのです。

また、前句の人物の視点に対向して、登場する人物の視点を設定する場合も「対向」の手法ということになります。支考が『俳諧十論』で向付の例として挙げている「大名なれど碁はお下手なり/商人は損した門に畏る」という付けも、前句の視点を大名の碁の相手をしている商人のものと見なして、そこに作句者の視点で商人を評した、あるいは大名から見た商人評を付けているのです。芭蕉が元禄三年に凡兆・去来と共に巻いた「市中は」の巻に見える「灰うちたゝくうるめ一枚/此筋は銀も見しらず不自由さよ」という付けも、作句者の視点で田舎の生活を詠んだ前句に、都会の人と思われる登場人物の視点で「このあたりは田舎だから秤量貨幣の銀が使えず不自由なことよ」と付けているのです。

作句者の視点は客観的視点、登場人物の視点は主観的視点と言い換えてもよいでしょう。連歌・俳諧においては、客観を詠み込んだ「他の句」、主観を詠み込んだ「自の句」の付合が様々に議論されましたが、視点の問題として再考する必要があるでしょう。

転換」の手法

最後に「転換」の手法について見てみましょう。この手法は「取りなし」「思いなし」などにより前句の世界を一転して思いがけない場に連衆をいざなうもので、転変果てしない連歌世界をつくりだすのに欠かせない手法と言えましょう。宗牧のいう「放」に当たります。この手法には、「詞付」の重要な技法である「掛詞」がしばしば使われました。対義的な言葉によった「相対」「引違」、思いなしによった「俤(面影)」の付けなども、「転換」の手法に含まれるでしょう。

前句の場面を一転する「転換」の手法は、視点そのものも転じられるわけですが、あえて視点の立ち位置にこだわれば、先に挙げた「展開」や「対向」の手法に分別できるかもしれません。しかし、そのいずれと分別し難いものもありますので、ここでは「取りなし」による場面の思いがけない転換に主眼をおき、一つの手法として挙げておきます。

先に例示した前句で考えてみましょう。

下五の「昼下がり」からオードリー・ヘプバーン主演の映画「昼下がりの情事」を連想し、「婆さま」を奉仕活動に捧げた晩年のへプバーンに重ねて、「キネマのことは夢のまた夢」と付けることもできるでしょう。これは面影(俤)の付けとも言えますが、イメージや意味における「取りなし」「思いなし」とすべきでしょう。

言葉による「転換」としては、先に挙げた「うらみても猶なぐさみにけり/松原のしほひにかゝる旅の道」という付けが好例です。「うらみ(恨み)」を「浦見」に取りなして、恋の句を一転して海沿いの旅の句にしてしまったのです。こうした掛詞の技法は書き言葉なら無理強いの感がしないでもありませんが、連歌は話し言葉をもっぱらにしているので、音の類似が思いがけない連想を可能にするのです。この場合、視点から見れば、主観的視点から客観的視点に転じたことになります。

また、「春のあはれはあけぼのゝ空/うき秋は猶夕暮の心にて」(撃蒙抄)のような相対の付けでも、春の季節が一転して秋になってしまうのです。こうした技法を称して、時枝誠記は「連歌は曲解の文学である」と言ったのです。

無心所着

連歌において、付句は前句に付かなければ連歌にならないのですが、往々にして、前句が夜の景であるのを無視して日中の句をよんだり、前句と何のつながりもない句を詠んだりすることがあります。ことに初心者の場合、前句の趣向を充分に吟味することなく、前句の一語のみをとらえて、それを題のように見なして句作することがしばしば見られます。前句をどう転じるかではなく、どう自己表現するかということに一生懸命になってしまうのです。

連歌の付合において、前句に付いていないことを「無心所著(着)」と言います。これは、『万葉集』巻十六において、舎人親王が「意味の通じない歌を作るものがあれば銭をやろう」と言ったのに対し、安倍子祖父が「吾妹子(わぎもこ)が額に生ふる双六の牡牛(ことひのうし)の鞍の上の瘡(かさ)」など、全く意味のつながらない二首の「無心所著歌」を詠んだことに拠っています。江戸時代には、自由奔放な付けで大ブームを巻き起した談林俳諧に対して投げかけられた批判の言葉でもありました。

連歌は打越を捨てて前句に付けなければなりません。つまり、前句と付句は何らかの関係がなければならず、打越と付句は同じようなものであってはならないのです。言い換えれば、「打越―前句」の世界から、「前句―付句」の世界に転じなければならないのですが、同じ前句を共有しながらも、打越と付句が異質なものであることによって、思いがけない転じが可能となるのです。その変化を楽しむことが連歌の面白さでもあります。

前句と付句が何ら関係なかったり、前句と付句が矛盾をきたしているような場合、これを「無心所着」と言い、打越と付句が同じようなものの繰り返しになっている場合、これを「観音開き」と言って嫌います。連歌においては、どちらも許されません。初心者が特に心しておかなければならないところです。

とはいえ、付句が前句に付き過ぎたり、前句の単なる説明や言い換えになってしまっては、これまた面白くありません。前句にはないイメージを創出し、付け加えなければならないのです。斬新な発想のみならず、新しい視点も求められるのです。