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奪われた古代史(アイデンティティ)[これは「諸君」掲載原稿の初稿です(図版はのぞく)]

                             高城 修三


目次

空白にされた六世紀以前
後勘校者、知之也
紀年論
邪馬台国論
神武東征論
記紀以前の修史事業
独自な文明の表白としての天皇号



空白にされた六世紀以前

 近年、歴史教科書が何かと話題になるが、その対象は概して近代史に限られている。そこでは、近代の日本を否定的に見る「自虐史観」「東京裁判史観」などと呼ばれる勢力と、近代の日本を肯定的に評価し歴史の見方にバランスを取り戻そうとする勢力とが激しくせめぎあっており、さらに大陸や半島の諸国から「歴史認識の共有」を求める大合唱が降りかかってくる。何とも騒がしく、うっとうしい。こうした歴史観の断絶と衝突が露わになってきたのは、東西冷戦が終わり、グローバル化が急速に進展する中で、諸個人・諸民族・諸国家が自らの拠って立つ文明やアイデンティティに敏感にならざるを得なかったからである。
 先の大戦に無残な敗北を喫して外国軍の進駐・占領という未曾有の事態に遭遇した戦後の日本人は、自己保全の無意識的な欲求から、受け入れがたい過去を別人格に押し付けて自己の精神的安泰を図ろうとする多重人格者のように振る舞ってきた。過去の善も悪も我が事として受け入れ、そこから苦渋に満ちた歴史の教訓を掴み取るのではなく、近代の日本を邪悪な侵略者として断罪し、その罪を皇国史観や軍国主義に押し被せてしまうことによって、自らを欺瞞的に浄化してきた。冷戦下のアメリカ占領政策が結果として戦後日本の奇跡的な繁栄をもたらしたことも相まって、そうした欺瞞を欺瞞として見すえることを難しくした。むしろ、戦後の日本人は「結果よければ全てよし」とうそぶいて、自らの欺瞞に陶酔したのである。
 日本の近代をどう評価するかということは揺るがせにできない問題であるが、さいわい近代史には「同時代の確実な史料」が有り余るほどにある。円柱を横から見て四角形だと言い張る者たちに、上から見れば円形だ、斜めから見れば円柱だ、と反論するに足る史料がある。近代の日本を否定し、国旗や国歌が担っている善悪の全てを引き受けることを否定する者たち、歴史認識の共有を迫る大陸や半島の人たちにも、根気よく「同時代の確実な史料」で対峙することが可能である。近代史については史料が解決してくれるのである。だが、問題なのは、そうした「同時代の確実な史料」が乏しい古代史である。
 中学・高校の歴史史教科書を開くと、我が国の統一国家形成期にあたる六世紀以前は「古墳時代」の名で呼ばれ、考古学資料と中国史料で埋め尽くされている。『日本書紀』『古事記』(以下、記・紀と表記する)が伝える天皇名にしても、中国史料に見えている「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)や埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘(獲加多支鹵[わかたける]大王)との関連で切れ切れに触れられているにすぎない。これは、昨年大きな注目を集めた扶桑社の『新しい歴史教科書』において幾らか訂正されたが、大勢は変わらない。一般向けに書かれた通史でも同様で、小学館の『大系日本の歴史』(一九八八)や集英社の『日本の歴史』(一九九一)において三〜五世紀を執筆しているのは、考古学者である。歴史学者ではなく、考古学者が古代史を書く。何とも奇妙な話である。
 我が国の統一国家形成過程を伝える歴史書の類が皆無というのなら、外国史料や考古学資料に頼って古代史を叙述するのもやむをえないだろう。しかし、我が国には六世紀以前の歴史を伝える正史『日本書紀』が、れっきとして存在しているのである。他に『古事記』もある。古代人が全身全霊を込めて口から耳へと伝承し、あるいは異国の文字まで使って記録したものを、八世紀の人々が編集し、後世に伝えようとした書である。そこに伝承上の錯誤や編集上の改変は避けられぬとしても、また政治的思想的な思惑が強く反映しているとしても、貴重な史料である記・紀を存分に活用しないで、どうやって我が国の古代史が構成できるというのだろうか。ところが、戦後の歴史学は「厳密な文献批判」の名の下に記・紀を為政者による造作の書であると断じ、我が国の古代史から追放してしまったのである。その最大の功労者は津田左右吉であった。
 八世紀初めに編纂された記・紀のもとになったのは、伝説や歌物語の類を記した「旧辞」、歴代天皇の重要な事績・御名・宮・系譜・陵墓などを記した「帝紀」である。津田左右吉は、その「旧辞」について「古事記に物語のあるのが顕宗天皇までであるのを見ると、その時からあまり遠からぬ後、たゞしその時の記憶がかなり薄らぐほどの歳月を経た後、多分、欽明朝前後、即ち六世紀の中ごろに於いて一ととほりはまとめられたのであらう」とし、「帝紀」も同じころに作られたとする(『日本古典の研究』上)。
 何とも杜撰な憶測・推論である。しかし、戦後間もない昭和二十三年に発表されたこの憶説は、時代の風潮に迎えられて有無を言わせぬ権威へと化していく。それには、皇紀二千六百年の紀元節の前日(昭和十五年二月十日)に津田の『古事記及日本書紀の研究』が発禁処分になっていたことの影響も大きかった。
 支那事変の泥沼に足をとられた上に日米開戦を翌年に控えていた当時、記・紀を聖典視する皇国史観は「聖戦」を遂行する精神的支柱であった。津田の著作は、その聖性をはぎとろうとするものであった。それゆえの出版弾圧である。ところが、「聖戦」として戦われた大東亜戦争は広島・長崎に原爆を投下されて無残な敗戦に終わってしまう。その結果を善悪の問題に固定化したのが、勝者が敗者を裁く東京裁判であった。戦後の日本人は一億総懺悔し、「侵略戦争」の罪を皇国史観=軍国主義=天皇制国家にかぶせて事足れりとした。そして、「侵略戦争」の精神的支柱であった皇国史観の聖典つまり記・紀を否定することが「あやまち」を悔い改めた証となり、記・紀的世界の要に位置する神武・神功を「架空の存在」と認めることが踏絵となったのである。これは、国旗・国歌が「侵略戦争」に使われたから「日の丸」「君が代」を否定しなければならないという論法に同じである。
 さらに、軍国主義や国家の弾圧に抵抗できなかったという負い目を持った知識人は、弾圧の被害者をことさらに祭り上げた。津田左右吉は一転して皇国史観に反旗を翻したヒーローとなり、その憶説に満ちた古代史学説は戦後の歴史学の揺るぎない原点になってしまった。「記紀の所伝に対する徹底した科学的批判を遂行して、前人未発の巨大な業績を築き上げた」(家永三郎・日本古典文学大系『日本書紀』解説)というわけである。しかし、筆者に言わせれば、津田は我が国の古代史を抹殺し、「推古朝(西暦六〇〇年前後)以前は歴史学の対象ではない」(井上光貞が『神話から歴史へ』一九六五の序文において引用した言葉)という恐るべき状況を創り出した元凶なのである。かくして、六世紀以前の古代史は抹殺されてしまった。大和や河内に残された巨大な陵墓はもっぱら考古学の対象となり、それらは名前も分からぬ「大王」の墓であるという。
 津田が主張する「記紀の厳密な史料批判」なるものは、「同時代の確実な史料」のみによって歴史を叙述しようとする素朴な実証主義に他ならない。この先駆者は一八八八年に「日本上古史」を『文』誌上に発表して「紀元五百年ヨリ以前ノ日本史ハ存セズ」としたウィリアム・ジョージ・アストンであろう。津田の発想もこの延長線上にある。確かに、公的な記録や日記など「同時代の確実な史料」は歴史記述にあたっての一級史料である。しかし、「同時代の確実な史料」がほとんどない六世紀以前に、それを素朴に適用すると六世紀以前の古代史は空白になってしまう。戦後の歴史学は、その空白部を断片的な考古学資料と中国史料で埋めて自らに都合のよい古代史を創作しようとしたのである。断片的な資料を恣意的に使えば、どんな突飛な説も可能である。いわく騎馬民族征服説、いわく三王朝交代説、いわく崇神・神武同一人物説……。
 こうした憶説の先鞭をつけたのも、自ら「皇室崇敬者」と言う津田である。昭和二十二年に刊行した『日本上代史の研究』において、津田は「私案に過ぎない」と断わりつつも、皇室はツクシではなくヤマトに起こり、長い年月をかけて国内を服属させたのであり、そのために「皇室が武力を用ゐて地方的豪族に臨まれるようなことは無く、国内に於いて戦闘の行はれたよう形迹は無かつた」というような奇妙な「真の上代史」を開陳してみせたのである。こうした上代史のために、津田は六世紀以前を空白にし、征服戦争を体現した神武天皇や景行天皇や神功皇后の物語を「説話」として抹殺しなければならなかったのであろう(天皇号が確立する以前の君主号については不明な点が多いので、以下、「天皇」に統一して叙述する)。
 戦後、古代史研究の史料として記・紀の重要性を主張する歴史学者もいなかったわけではないが、そうした声は「反動」「右翼」の声に掻き消され、次第に小さくなっていく。六世紀以前の記・紀の記述を切り捨てようとする津田の偏向をただし、記・紀の中から歴史事実を汲み取ろうとした井上光貞にしても、「六世紀以前についての記紀の記載のなかから、史実を探りだすということは原則として絶望的である」(『日本古代国家の研究』一九六五)と言わざるをえなかったのである。さらには、大化の改新(六四五)以前、壬申の乱(六七二)以前さえ古代史研究の対象にならないというありさまである。津田左右吉は六世紀半ばごろに帝紀・旧辞が述作されたとしたが、それも、八世紀初めの記・紀編纂時代に机上で創作されたとまで主張されるようになる。戦後の歴史学がしぶしぶ認めている天皇(それも大王と呼ぶ)は、第十代崇神、第十一代垂仁、第十五代応神から第二十一代雄略まで、さらに第二十六代継体以降の天皇にすぎない。こんなつまみ食いをした挙げ句、突然、七世紀の律令国家形成期から古代史が始まるのである。
 六世紀以前を否定する古代史がいつの間にか国民の常識になってしまったのは、アメリカの占領政策が結果として戦後の未曾有の経済的繁栄につながったために、実利本位の戦後日本人に東京裁判の刷り込みが広く受け入れられたことも背景にあるだろう。加えて、大学の講座制のもとで津田を原点とする古代史観が拡大再生産されたこともあずかっていよう。その教え子が六世紀以前を古代史の対象からはずし、その時代を考古学者にゆだねて我が国の統一国家形成期を「古墳時代」と称するような歴史教科書をつくってしまったのである。そして、日本が世界最強の経済大国ともてはやされたバブル時代に至って、六世紀以前を考古学資料で埋めた古代史が登場するに至るのである。この奇妙さに、誰も表立って異議を唱えない。戦後の日本人は、受け入れたくない過去を別人格者にして自らのアイデンティティを保持しようとする多重人格者になってしまったのである。


後勘校者(のちにかんがへむひと)、知之也(しらむ)
 
 津田左右吉によって六世紀以前の記・紀の記述は「述作」「説話」として古代史から葬り去られてしまった。しかもそれは、瀧川政次郎が「その文献批判は微に入り細を穿ち、非常に科学的な外観を呈していますが、皇室の権威を降ろしてやろうという一つの成り心を以て臨んでいるところに、非常に非科学的なものがある」(『古代文化』34巻8号「津田史学の終焉と津田学徒の責任」)と評したようなやり方によってである。確かに津田の言うように欽明朝のころに「帝紀」「旧辞」が述作されたのなら、そこに「同時代の確実な史料」といえるようなもののあるはずがない。歴史を探索するのも不可能であろう。しかし、本当にそうなのだろうか。同時代の記録の類ではないにしても、そこに記された伝承の類に史実は一切ないというのだろうか。一九七八年に、埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文から五世紀後半の雄略天皇の実在が証明されたのではなかったか。あれは特別で、他は全部創作だと言うのだろうか。
 それにしても、なぜ戦後の歴史学者や津田は記・紀の記述に対して「述作」「造作」「机上の創作」などと言い募るのであろうか。過去に存在したと伝承されている人物の実在性を証明するには確実な証拠を一つでも挙げさえすればよい。たとえば雄略天皇の御名(ワカタケル)を刻んだ鉄剣のように。しかし、その非実在性を証明しようとすれば、そのあらゆる可能性を否定しなければならず、事実上、不可能と言える。だが、ただ一つ、その人物が、後世、何者かによって創作されたと証明できれば、その実在性を否定できたことになる。だから、津田や戦後の歴史学者は「述作」だの「机上の創作」だのと言い募るのである。しかし、伝承者や記・紀編者による潤色、改変があったにしても、その人物を机上で創作したか否かを立証するのは非実在性の証明と同じように難しい。それを可能にしたのが、戦後の風潮であった。そこでは「机上の創作」と呪文のように唱えさえすれば、戦後の歴史学者にとって都合の悪い記述をいとも簡単に葬り去れたのである。
 六世紀以前の記・紀の記述が信用できないという戦後の歴史学者や津田の論拠のうち唯一是認できるのは、継体天皇以前の紀年(『日本書紀』に示された年代)が延長されていることである。そのために中国史書にある朝貢記事と記・紀の記述が合わなくなっており、神功皇后のあたりになると紀年が一二〇年つまり干支二運も古くなっているし、一〇〇歳を超える天皇の宝算(寿命)も少なくないのである。金属製武器を持って大和に攻め込んだ神武天皇が西暦紀元前六六〇年に畝傍山の麓で即位したというのも、考古学が示す年代と矛盾する。しかし、それは『日本書紀』編纂のおり、我が国最初の正史を編年体の史書とするために無理をして「紀年」なるものを創出したからに他ならない。六世紀以前の古伝の信頼性は、それとは別の問題であるにもかかわらず、戦後の歴史学は、紀年がでたらめだからと記・紀の記述を否定する論拠としてしまったのである。
 六世紀以前の古代史が「机上の創作」であるならば、なぜ八世紀初頭の日本人は異説をいっぱい並べるという不体裁な正史『日本書紀』をつくったのであろうか。中国の正史のように、前王朝を倒して樹立された王朝を正当化し、異説を許さない歴史書を編纂することもできたはずだ(ただし『古事記』は天武天皇の詔によって徹底した「削偽定実」がなされており、異説を掲げない)。なぜ、そうしなかったのか。後世の歴史学者から疑われるような「説話」的な文章など削って、なぜ全巻を天武紀のような記録風の叙述にしなかったのか(そうしたら、そうしたで、また戦後の歴史学者は「机上の創作」を言い立てるであろうが)。むしろ、『日本書紀』の編者はできるかぎり先行する文献や古伝承に忠実であろうとしたのではなかろうか。
 継体紀二十五年の条に奇妙な文言がある。継体天皇の崩御年について、『日本書紀』編者は「或本」に甲寅年=五三四年とあるのを挙げた上で、紀年上、二年の空位期間が生じるのもいとわず、「百済本記」が伝える「辛亥年=五三一年=継体二十五年」説を採用し、継体紀の最後を「後勘校者、知之也」と締め括っている。「後世、考え調べる人が明らかにするであろう」というのである。同様な文は欽明二年三月の条にも見えており、その少し後に「一たび往し識り難きをば、しばら且く一つに依りて撰びて、その異なることをしる註詳す」と、『日本書紀』の編集態度を明らかにしている。
 異説を安易に排除せず、矛盾は矛盾のままに書き記し、それをカッコ入れておいて後世の判断を待とうという態度である。神代紀第五段のように、本文の他に十一もの異説を掲げている例もある。一つの時代の思想と方法で矛盾に満ちた現実を歴史として裁断することの恐ろしさを、「後勘校者、知之也」の作者は知っていたに違いない。律令国家形成期という大きな時代の制約の中で、『日本書紀』の心ある編者は、その思いを何とか分かって欲しいと現代の私たちに呼びかけているのである。私たちはその思いに答えなければならない。
 我が国に一応の統一国家が形成される六世紀以前の時代について豊富な知識を与えてくれるのは、記・紀をおいて他にない。しかし、そこから確かな史実を汲み出すのは容易なことではない。そのためには、津田左右吉のような素朴な実証主義を超える新しい古代史の方法が試みられなければならないのである。少なくとも記・紀の記述に対しては、「同時代の確実な史料」以外は「説話」「机上の創作」として恣意的に切り捨ててしまうというのではなく、その虚実を確かな方法によって検証するまでカッコに入れておくという態度が不可欠であろう。
 以上のような立場から、筆者は数年前から作業仮説を導入した記・紀の比較によって古代史の三大難問に取り組むという方法を実践してきた。古代史の三大難問とは、紀年の延長をめぐっての「紀年論」、邪馬台国の位置をめぐっての「邪馬台国論」、さらに神武の故郷や東征路をめぐっての「神武東征論」である。紀年と神武東征は戦前の古代史における大問題であったが、戦後の歴史学が六世紀以前の記・紀の記述を否定してしまったために、戦後の一時期を除いて論争そのものが封印されてしまった。それに対して江戸時代から大和説・九州説をめぐって論争されてきた邪馬台国問題は、戦後の歴史学が許容する範囲で、つまり中国史料(魏志倭人伝)と考古学資料のみで論争できるものとして一躍脚光を浴び、いわゆる邪馬台国ブームを招来する。いつしかタブーとなっていた神武東征も、「邪馬台国東遷説」としてこっそり復活してくるというありさまであった。この三大難問を避けて、我が国の古代史は語れない。


紀年論

 まず筆者が取り組んだのは、戦後の歴史学が記・紀の記述を否定する重要な論拠としていた紀年である。『日本書紀』には初代神武天皇が甲寅年(紀元前六六七年)に「筑紫の日向」を進発してから第四十代持統天皇が持統紀十一年(六九七年)に譲位するまで紀年が付されているが、『古事記』でも最古の写本である真福寺本に第十代崇神天皇から第三十三代推古天皇のうち十五天皇についてのみ崩年干支(天皇の崩御年を干支で記したもの)が残されている。第二十三代顕宗天皇以下の六代については治世年数も記されている。なお、全ての天皇についてではないが、宝算も残されている([表1]参照)。
 紀年と崩年干支については、本居宣長以来、別個の史料に拠ったものであろうとされてきた。津田左右吉も同様の見解を取っている。[表1]を一覧すれば、第二十七代安閑天皇以降は概ね合致しているが、それ以前については全く異なっているように見えるだろう。これについて、那珂通世に始まる明治の紀年論は『古事記』崩年干支を信頼し、それをもとに紀年の訂正を行なった。これは戦後の歴史学にも受け継がれ、戦後の歴史学が実在したのではなかろうかと認める崇神天皇の崩年=戊寅年を三一八年としている。しかし、この比定には少なからぬ問題があるので、筆者は、戦後間もなく出版された紀年論の名著『増補上世年紀考』(三品彰英)に促されて、記・紀の比較による紀年原史料の復元を試みたのである。
 紀年原史料の復元にあたっては、記・紀が共通して記す天皇の代数や治世年数は大前提となる。三品彰英が言うように、これを認めなくては紀年論そのものが成立しないからである。そのうえで、紀年の原史料を復元するために以下のような四つの作業仮説を設け、それに基づいて記・紀の比較を行なった。
 (一)『古事記』崩年干支と『日本書紀』紀年には共通の原史料がある。
 (二)原史料の治世年数は即位年と崩年を含むとうねん当年称元法に拠っている。
 (三)紀年延長には累積年(えつねん越年称元法)・春秋年・虚構年が使われている。
 (四)紀年的世界の枠組と開化天皇以前の紀年はしんい讖緯思想に拠っている。
 簡単に説明を加えておこう。
記・紀が伝える天皇の代数と治世年数を信頼するという「前提」と(一)がなければ紀年の原史料復元そのものが成り立たない。同じ原史料から崩年干支と紀年の相違が生まれたのは、原史料の解釈・編集思想の違いに加えて、用いた史料の多寡もあずかっていたと考えられる。
 (二)の当年称元法は、古来の年齢の数え方(数え年)と同じく新帝即位の年を治世元年とするもので、古い治世年数の数え方であったと思われる。『古事記』が崩年干支しか示していないのは「先帝崩御の年=新帝即位の年」と考えていたからで、これは原史料の当年称元法を伝えているのであろう。ただし、『古事記』においても、百済より暦博士を招来した欽明朝以降は越年称元法(先帝崩御の翌年を新帝の元年とする)による数え方も一部採用されたであろう。一方、『日本書紀』は越年称元法で一貫している。記・紀における欽明朝以降の治世年数の違いは称元法の混乱として説明可能である。
 (三)は山本武夫が『日本書紀の新年代解読』(一九七九)において試み、画期的な成果を得た仮説だが、『古事記』崩年干支や宝算との比較を欠いたために仁徳天皇以前の紀年解読を誤ってしまった。『日本書紀』編者は当年称元法で伝えられていた原史料の治世年数から一年を減じないまま越年称元法に切り替えたと思われる。この手法によって、『日本書紀』は天皇の代替りごとに紀年を一年引き伸ばしたのである。ただし、これが可能だったのは継体天皇以前であったと思われる。
 春秋年(暦)は我が国に元嘉暦(宋の何承天がつくり四四五年より施行)が渡来する以前に使われていたと考えられる。これは春分・秋分のころの満月の日をもって「年の初め」とするもので、「魏志倭人伝」に見えるはいしょうし裴松之注に「魏略に曰く、其の俗正歳四節を知らず、ただ但、春耕秋収を計って年紀となすのみ」とあるのは、三世紀ごろの我が国の春秋暦のありさまを述べたものであろう。しかし、六世紀半ばに太陰暦が導入されて以降、春と秋の「年の初め」の儀式は次第に正月と盆(七月)の行事に吸収されていった。民俗学者の柳田國男は「盆と正月とは春秋の彼岸と同様に、古くは一年に二度の時祭」(『先祖の話』)であったと言っている。春秋年の豊富な例は記・紀に見えている古代天皇の宝算で、そのいずれも四五歳から一六八歳の間におさまっているから、一年に二度歳を取ったと考えれば合理的な数値であろう。天文学者の小川清彦が明らかにしたように『日本書紀』は安康紀三年以降に元嘉暦を使っているので、それ以前の紀年には春秋年(暦)が使用されていたと思われる。
 神功皇后以前では紀年を延長するための虚構年の可能性を考えなくてはならない。ここで虚構年というのは『日本書紀』編者が史料として用いた百済史書や中国史書の干支の比定を何運か古くしたものをいう。それも恣意的になされたのではなく、春秋年で伝承されていた宝算に拠ったものであろう。また、神功皇后の摂政期間とされているのは六九年(春秋年)だが、その五十一年条に「朕(ちん)が存(い)けらむ時の如くに、(百済に)敦(あつ)く恩恵を加へよ」とあり、これは前後の事情を勘案すれば皇后の遺詔としか考えられないので、この年に皇后が崩御したと思われる。本来、この年以降の十九年(ここだけは外国史料で構成されていて太陽年、春秋年なら三八年になる)は次の応神天皇の治世年数に加えられなければならないものである。
 (四)紀年の原史料復元が可能なのは比較史料のある崇神崩年=戊寅年までである。開化天皇以前は『古事記』に見られるように宝算の古伝承しかなかったと思われる。『日本書紀』の開化天皇以前の紀年は『古事記』宝算のような古伝承を基にして讖緯思想で作為したものであろう。神武天皇の辛酉年(紀元前六六〇年)即位も讖緯説によったものである。
 以上のような仮説のもとに紀年原史料の復元をすすめた。復元過程は非常に複雑になるので、詳しくは筆者の『紀年を解読する』(ミネルヴァ書房)を参照していただきたい。[表2]がその結果である。また、記・紀において年代の延長は[図1]のようになされたと考えられる。
 復元した原史料を実年代に比定すると[表3]のようになる。「御肇国(はつくにしらす)天皇」と称された崇神天皇の崩年は西暦二九〇年である。これを、確実な史料とされる同時代の記録や金石文、さらに史料性はやや劣るが『三国史記』の百済本紀や新羅本紀などの記述と対照したのが[表4]である。『日本書紀』の記事は、崩御や即位など主要な国内記事の他は外交関係記事を干支に従って配置した。継体紀以前の『日本書紀』は百済三書(百済記・百済新撰・百済本記)や中国史書(魏書・晋書)を引用し、延長した紀年に干支だけを合わせて嵌め込んだために歴史の脈絡が断たれ、非常に分かりにくくなっている。しかし、筆者が新たに解読した紀年と照合してみれば、深い関係にあった彼我の歴史が鮮やかによみがえってくるだろう。
 まず、記・紀否定の論拠とされた「倭の五王」について検証してみよう。この比定によれば、『晋書』『宋書』に見えている一一件の遣使記事は「倭王世子興」(世子は朝貢国の太子をいう)に問題が残るものの、すべて通説の讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、武=雄略に適合している。しかも、いずれの天皇も即位後間もなく遣使しており、唯一、即位一六年後に派遣している雄略天皇の場合、その上表文において遣使の遅れた理由を高句麗の無道に帰し、くどくどと謝罪しているのである。このことは、雄略天皇以前の倭王の遣使が即位直後になされる慣例であったことを物語っている。何よりも、治世年数が足掛け三年しかない反正天皇の遣使がぴたりと合っていることは、筆者の紀年解読の確かさを示していると言えよう。
 四六〇年十二月の倭国王遣使、四六二年三月の倭王世子興の遣使については、四六〇年一月に允恭天皇が崩御し、翌年十一月に雄略天皇が即位するまでの二年足らずの間に、木梨軽太子(きなしのかるのみこ)の失脚、安康天皇の即位・崩御、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の謀殺、雄略天皇の即位と、情勢がめまぐるしく変転するので、『宋書』が伝えるように興が倭王の世子ならば木梨軽太子もしくは市辺押磐皇子の可能性が強く、興が雄略天皇の兄とする記述を採れば木梨軽太子か安康天皇ということになる。いずれとも定めがたいが、倭王武の上表文にも武の父兄が相次いで亡くなったことが記されており、そうしたことを勘案すれば、むしろ紀年解読の確かさを実証していよう。
 仁徳天皇の初めに三年間課役を免じたとする有名な伝承は単なる説話と考えられているが、著者の紀年解読によれば、応神天皇治世下における絶え間のない海外遠征に加え、その崩御後、巨大な応神天皇陵を築造したために、かまどの煙が絶えるほどに人民が困窮していたことを伝えるものであろう。この「三年の課役」は秋の収穫に基づくものであろうから、太陽年と考えられる。『日本書紀』の編者もこのことに気づいていたらしく、仁徳紀四年に課役の免除を宣告してから三年後(春秋年、ただし太陽年を装っている)に天皇が高殿より遠望すると民のかまどから煙が多く立っているにもかかわらず、天皇は課役の免除をさらに三年(春秋年、同前)のばしている。都合六春秋年である。太陽年だと三年、つまり三回の課役を免除したことになる。こうしたことも『日本書紀』に春秋年が使われている傍証になるだろう。また、編者も春秋年の存在を知っていながら、紀年延長のために春秋年を太陽年のように装っていたと思われる。
 「倭の五王」以前における同時代の確実な記録と言えば、広開土王碑文と七支刀銘文がある。明治時代に石上神宮の禁足地より出土した七支刀銘文の訓読は諸説あるが、ここでは「泰和四年五月」に「百済王世子奇生」が「倭王旨」に贈呈した刀であるとする説に従うことにする。泰和四年は三六九年に当たる。『三国史記』百済本紀は、この年の九月、高句麗王が二万の軍勢を率いて攻めて来たので、百済王は太子(仇首)を派遣して大破したと記している。高句麗の侵攻を間近にした「百済王世子奇生」は、「泰和四年五月」に、背後の倭国と連盟して高句麗と戦うために「倭王旨」に「百錬の鋼」で造った七支刀を贈ったのであろう。この刀については『日本書紀』神功紀五十二年九月の条に、百済より「七子鏡一面、及び種種(くさぐさ)の重宝」と共に献上されたと記されている。神功紀五十二年は二五二年に当たるので、その干支を二運(一二〇年)繰り下げて三七二年のこととする説が一般的だが、これは比定を間違っている。神功皇后は神功紀五十一年(筆者の紀年解読によれば三六八年、この年から神功紀六十九年までは太陽年)に崩御しており、その翌年の神功紀五十二年(三六九年)九月に、七支刀が我が国にもたらされたのであろう。「倭王旨」は即位したばかりの応神天皇に当たる。その即位の祝いも兼ねて「七子鏡一面、及び種種の重宝」が贈られたと思われる。
 広開土王碑文に記された辛卯年(三九一年)以来、広開土王と激しく戦ったのは応神天皇である。紀年を訂正した『日本書紀』の記事と広開土王碑文や『三国史記』の倭国関係記事は[表4]に示したように見事に一致している。おそらく、四〇七年の戦いを前にして、応神天皇は崩御したのであろう。
 紙幅の関係で幾つかの検証しか書き記せなかったが、記・紀が伝える歴代天皇の代数と治世年数を前提に、四つの作業仮説を導入して行なった紀年解読の結果は、同時代の確実な記録とされる大陸王朝への遣使記事や金石文などと矛盾しない、というよりも見事に適合していると言ってよかろう。これによって、初めに掲げた前提と作業仮説の正当性も検証されたのではなかろうか。本居宣長から戦後の歴史学に至るまで信じられてきた『日本書紀』紀年と『古事記』崩年干支が別個の史料に拠ったとする説の誤りも、明らかになったであろう。
 筆者の原史料復元の過程で、第十代崇神天皇から第十八代反正天皇までの歴史が最初にまとめられ、記録された可能性が高くなってきた。おそらく、それは、ハツクニシラス天皇に始まる古代統一国家形成過程を物語る歴史であっただろう。このとき、「帝紀」「旧辞」の核になるものがつくられたに違いない。これと関係していると思われるのが、雄略紀二年(筆者の紀年解読によれば四六二年)に見えている史戸(ふみひとべ・史部[ふみひと]を養う部民)の設置であろう。雄略天皇は史部のむさの身狭すぐり村主あお青とひのくまのたみのつかいはかとこ檜隈民使博徳を寵愛したと記されており、二人は二度にわたって呉(大陸の南朝)に遣わされている。倭王武の上表文の作成に関わったのも彼らであろう。


邪馬台国論

 紀年論に次ぐ古代史の難問は邪馬台国論であるが、これは皇国史観がつくりだした難問であった。
「邪馬台国」は倭の女王卑弥呼が都する所として「魏志倭人伝」に初めて登場してくる。このとき、「魏志倭人伝」を編纂した陳寿の表現に少なからぬ混乱があったために邪馬台国の位置があいまいになってしまうのだが、七世紀に成った『隋書』倭国伝には「(倭国は)邪摩堆(やまと=邪馬台)に都す、則ち魏志のいわゆる邪馬台なる者なり」と明示されているのである。おそらく大和に赴いた裴世清の報告によって確認されたのであろう。『日本書紀』も「邪馬台国=大和説」に立って「卑弥呼=神功皇后説」を採っていた。神功皇后摂政期間を一二〇年余り古く考えたために皇后を卑弥呼に比定したのは誤りであったが、その位置については中国においても日本においても何ら問題がなかったのである。
 ところが、神ながらの皇国(日本)が漢土(中国)に朝貢などするはずがないと考える本居宣長が「熊襲偽僣説」を打ち出し、景初三年(二三九)の卑弥呼の遣使を「皇后の盛名を偽って熊襲の類が私にした使いである」として以来、「邪馬台国=九州説」が一人歩きを始めたのである。九州に山門郡・山門郷などの古地名があったこともあずかっていた。さらに明治四十三年(一九一〇)に白鳥庫吉が「倭女王卑弥呼考」において、『魏志』には「古今に比類なき短里」が使われているとし、帯方郡よりふみ不弥国まで一万七百余里であるのに対し、不弥国より邪馬台国まで千三百余里に過ぎないとして、その距離比に注目して九州説を採ったのである。これ以降、距離比による邪馬台国の比定は九州説の不動の論拠となった。もちろん、九州説では行程記事の方角は全て正しいとする。戦後の歴史学の原点となった津田左右吉も、この説の信奉者である。
 しかし、「邪馬台国=九州説」は皇国史観と行程記事の誤読が生み出した謬説であった。そこへ、戦後の歴史学が六世紀以前の記・紀の記述を否定し、その空白を考古学と中国史料で埋めようとしたことも加わって、邪馬台国論争は歴史愛好家の恰好の古代史ネタとなり、謬説に謬説を継ぎ足して、いっそうの混迷をきたしてしまったのである。この事態に嫌気がさした戦後の歴史学者は、もともと文献上の問題つまり歴史学の対象である邪馬台国問題から逃げ出し、もっぱら考古学の成果に期待する始末である。これでは歴史学の敗北以外の何ものでもない。自ら墓穴を掘ったわけだが、笑ってばかりもいられない。邪馬台国が九州か大和かという問題は、単なる位置論争ではなく、我が国の統一国家形成にかかわる重大問題だからである。
 本居宣長以来の難問にどう立ち向かうか。すでに筆者は紀年解読によって第十代崇神天皇の崩年=戊寅年=西暦二九〇年を解明している。卑弥呼の後を継いだ壱与と考えられる倭女王が建国直後の西晋に遣使したのは、西暦二六六年である。この時間的な近接は無視できない。そんな筆者の前に、笠井新也が提唱した「邪馬台国=大和説」「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)説」「箸墓=卑弥呼の冢墓説」が大きく浮かび上がってきたのである。
邪馬台国はあくまで文献上の問題である。その発端となった魏志倭人伝を編纂過程にまで立ち入って読み解き、それを我が国の古代史書である記・紀の記述と比較対照し、その結果を考古学の成果で検証するというのが、まっとうな方法であろう。その過程では、紀年解読で試みた作業仮説の導入が不可欠である。
 魏志倭人伝の行程記事は、倭女王卑弥呼の都がある邪馬台国へのルートを記したものである。ここで、宣長以来問題になってきたのが「南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」の記事である。倭国に派遣され里程記事を残した報告者(おそらく正始元年に倭国に遣わされた梯儁)は、「郡使の往来つねにとど駐まる所」とされている伊都国より先には足を踏み入れてはおらず、そこから邪馬台国までのルートは伝聞記事である。邪馬台国へは、伊都国から奴国、不弥国を経て、博多湾岸から船で瀬戸内海を行く海路と、山陽道を行く陸路があり、報告者は主要なルートである海路について倭人から聞き取り、それを「投馬国に至る水行二十日」「邪馬台国に至る水行十日」と記したと思われる。さらに、伊都国から邪馬台国へ陸行すれば一ヶ月かかると付け加えたのであろう。漢文には句読点も改行もない。それだけに、どこで区切るか難しい。「水行十日」の後に「以上の行程は」と入れるか、「陸行一月」を割注にでもしておいてくれれば今日の混乱はなかったはずである。
 それでは里数と方角の問題はどうなるのかという反論が、九州説から起こってくるだろう。これにつても、春秋暦と同じように、古い日本には大陸とは違った里(一町里)、大陸とは九十度違った方位の決め方があったらしいのである。
筆者が言う「一町里」は白鳥庫吉が「古今に比類なき」と形容した短里で、六〇歩もしくは六〇尋(ひろ=約九六b)を単位とする距離である。これが、日本では後に「六〇間=一町=約一〇九b」という単位になった。文献上では「魏志東夷伝」の韓伝に「韓は……方四千里ばかり」とあり、倭人伝にも帯方郡から伊都国までの一万五百里および伊都国から奴国をへて不弥国に至る二百里など豊富な例があって、現在の地図に当てはめると、いずれも一〇〇メートル足らずの距離になる。さらに、『日本書紀』の崇神紀六十五年の条に「任那は筑紫国を去ること二千余里」とあり、実際の距離は約二〇〇キロであるから、この里が一町里であることは確かであろう。「五町里(三〇〇歩)」を使っていた律令国家の官人が創作したものとは、とても考えられない。古伝がそのまま残ったのであろう。同じようなものに、肥前国風土記逸文の「松浦の縣。縣の東三十里に 揺岑(ひれふりのみね)あり」という記事や、『新撰姓氏録』吉田連(きちたのむらじ)の条に崇神天皇の御代のこととして「任那国奏して曰く、臣の国の東北に三己*(こもん、*はさんずいに文のモン)の地(上己*・中己*・下己*)あり。地は方三百里」などの記事があり、いずれの里数も一町里としなければ実距離に合わない。幸いにも、古伝承が訂正されることなく残ったと思われる。その元を尋ねれば、周公旦が殷の遺臣商高から教わったと伝えられる「一寸千里の法」(『算経十種』冒頭の「周髀算経」にある)にまでさかのぼるであろう(道家康之助「短里の由来」『東アジアの古代文化』53)。
 日本の里は、帯方郡に属した倭・韓の地で使用されていたと考えられる一町里が古くから使われていて、律令時代には五町里もしくは六町里となり、江戸時代以降は三六町里となったのである。しかし、「里」という文字面だけを見ても、その実際の距離は分からない。これは記・紀に「年」とあっても、それが六ヶ月を意味する春秋年か十二ヶ月を意味する太陽年か分からないのと同等である。
 陳寿は、倭国に派遣された帯方郡の使者が残した報告書に、倭・韓の地のみで使われていた短里(一町里)があることに気づかず、それを当時の魏・晋で使われていた里=約四三四bと見なして魏志倭人伝を編纂したのであろう。その際、東夷の果てに位置する倭国の都(邪馬台国)までの距離に格別の興味があった陳寿は、伊都国から邪馬台国までの「陸行一月」の記事から、一日に歩く里数を魏・晋の里(魏里としておく)で五〇里とし、「三〇日×五〇魏里=一五〇〇魏里」という計算をして、これを伊都国までの「一万五百町里」に加え、「郡より女王国に至る万二千余里」としたのである。これではメートル法と尺貫法を区別しないで計算するようなものだ。混乱が生じるのも無理はない。
 今一つ、邪馬台国問題に混乱をもたらしたのは、我が国の古い方位と大陸の方位が九十度ずれていたために、帯方郡の使者が倭人から得た伝聞記事において、投馬国・邪馬台国・狗奴国がいずれも伊都国から見て「南」とされてしまったことにある。もちろん、「東」の間違いである。ただし、使者が実際に訪れた伊都国までと、それに近接する奴国・不弥国までの方角については、原田大六が『邪馬台国論争』で説いたように夏の日の出の位置によって東を定めたために、実際の東を東南としてしまうような、八分法で四五度のずれが生じたのであろう。
 古代の我が国では、『日本書紀』の成務紀五年の条に「阡陌(たたさのみち よこさのみち)に随ひて邑里を定む。因りて東西を日縦(ひのたたし)とし、南北を日横(ひのよこし)とす」と記しているように、東西を縦(阡)とし、南北を横(陌)としていた。日本語の東は「日向し」に由来する。つまり「日の出の方向」に向かった人から見て、前後方向を阡とし、左右方向を陌としていたのである。これに対し、大陸では「天子南面」の思想に見られるように南中する太陽に向かって、その前後方向(南北)を阡とし、左右方向(東西)を陌としたのである。南の方角を示す「指南車」も同じ思想による。だから、倭人が帯方郡の使者に「邪馬台国へは日に向かって行く」と言えば、しかもそれが通訳を介してのことなら、「東に行く」を「南に行く」と受け取られることは十分に考えられるのである。
 先に挙げた吉田連の系譜伝承においても、実際は任那から見て「西北」にある己*の地が「東北」にあるとするのは、魏志倭人伝と同様の錯誤があったからではなかろうか。共に時計回りに九〇度ずれているのである。時代も同じ三世紀で近接しており、偶然の一致とは思えない。こうした魏志倭人伝や『新撰姓氏録』との思いがけない一致を見れば、成務紀の記事の重要性が分かるであろう。成務天皇の和風諡号である「ワカタラシヒコ」に七世紀の天皇と共通の「タラシ」号があることをもって安易に成務天皇の実在を否定しようとする戦後の歴史学の態度には、大いに問題があると言わねばならない。
 魏志倭人伝の里程記事から見て「大和=邪馬台国」であることに何ら問題はない。笠井新也は邪馬台国への行程を日本海回りにしているが、これは「水行十日陸行一月」の記事の解釈を誤ったからに他ならない。帯方郡から邪馬台国への道を図示すると[図2]のようになる。
 次に、笠井新也の「倭迹迹日百襲姫=卑弥呼説」「箸墓=卑弥呼の冢墓説」を記・紀の記述や考古学資料で検証してみよう。
 記・紀は崇神天皇の初めに三輪山祭祀について語っている。ことに『日本書紀』においては、第七代孝霊天皇と倭国香媛(やまとのくにかひめ)との間に生まれた倭迹迹日百襲姫について詳しい話が記されている。おそらく、我が国の統一国家形成課程を初めて記した「崇神天皇に始まるハツクニシラス天皇の物語」の冒頭に置かれていたものであろう。先の紀年解読で明らかになった崇神崩年=二九〇年から考えれば、記・紀の皇統譜で崇神天皇の二代前に当たる倭迹迹日百襲姫は卑弥呼と同世代ということになる。
 倭迹迹日百襲姫は「倭成(やまとな)す」と歌われた大物主神の妻(女性最高司祭者=巫女王)となって三輪山のふもとにあったと思われる神浅茅原に住み、国難にあっては天皇の行幸を受けて大物主神を憑依し、また神語をよく解したと伝えられている。これが魏志倭人伝にいう「鬼道につか事え、よ能く衆を惑わす」の実態であろう。天皇と倭迹迹日百襲姫の関係は、「男弟」「倭女王」に対応しよう。また、諸国の交易を監察せしめたという「大倭」は、欠史八代の天皇の和風諡号(和風のおくり名)に四例ほど見えている「オオヤマト」を意訳したものと考えられよう。
 記・紀が伝える倭迹迹日百襲姫の系譜も尋常ではない。その父は第七代孝霊天皇(オオヤマトネコヒコフトニ)であり、その和風諡号に見える「ヤマトネコ」は第八代孝元天皇・第九代開化天皇にも共通している。倭国の盟主的存在であったヤマト国王(邪馬台国王)を意味する称号であろう。仁徳紀に見えている難波根子武振熊も同様の起源をもっていたと思われる。戦後の歴史学は記・紀編纂当時の天皇である第四十代持統天皇・第四十二代元明天皇・第四十三代元正天皇の和風諡号に「ヤマトネコ」が見えることから、これを使って第七代〜九代の和風諡号を造作したとするが、これは承服しがたい。というのも、第十二代景行天皇の皇子にも「ワカヤマトネコ」の名が見えており、『続日本紀』和銅七年六月十四日の条に「若帯日子の姓は国の諱(いみな)に触るゝがために改めて居地によりてこれを賜ふ」とあるように避諱思想が強かった当時、偉大な持統天皇の諡号を使って一皇子の名を造作したとは、とても考えられないからである。むしろ、ヤマト国王の称号としての「ヤマトネコ」が倭国成立以降にその権威を失ったために一皇子の名として付けられたのであろう。そうしたいきさつが忘れられたのち、持統天皇の時代になって、最初に倭国統一国家が試みられた時代の光栄ある諡号として「ヤマトネコ」を襲名したと考える方が合理的である。こうした例は、醍醐天皇(897〜930)の治世を理想として同じ名を襲名した後醍醐天皇(1318〜1339)のように、後世しばしば見られるところである。
 さらに驚くべきは、倭迹迹日百襲姫の母(倭国香媛)の名を『古事記』が「オオヤマトクニアレヒメ」と伝えていることである。これは「大倭国を生んだ女性」を意味する。記・紀が伝える女性名で「オオヤマト」を冠されているのは持統天皇と倭国香媛だけである。倭国香媛は皇后とはされていない。一人の妃にすぎない。そのような女性にオオヤマトクニアレヒメという名は、尋常ではない。これは、倭国統一国家の最初の女王(女性最高司祭者=巫女王)となった倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)を生んだ女性の諡号、と考えてこそ相応しいものとなる。
 魏志倭人伝は卑弥呼の墓を「径百余歩」と伝えている。当時、薄葬であった魏の役人は卑弥呼の墓の巨大さに驚き、それを特筆したのであろう。魏の一歩は約一・四五メートルである。一方、箸墓の後円部の直径は約一六〇メートルで、ほぼ「径百余歩」対応する。かつて箸墓の築造年代は四世紀半ば頃と考えられていたために、笠井新也の「箸墓=卑弥呼の冢墓説」は長らく無視されてきたが、近年の年輪年代測定法(木材の年輪のパターンによって伐採された年代を一年単位で特定する方法)の成果によって、箸墓の築造年代を三世紀半ば頃、つまり魏志倭人伝が卑弥呼の没年と伝えるころとする考古学者が多くなって、にわかに「箸墓=卑弥呼の冢墓説」が有力になってきた。
 『日本書紀』は箸墓を倭迹迹日百襲姫の墓と記している。しかも前代未聞の巨大古墳として伝えており、これは箸墓を我が国最初の巨大古墳とする考古学の成果と一致する。さらに、箸墓が三輪山ふもとの「大市」に築造され、そのおり「大坂山の石」を運んできたとする記述も考古学資料によって裏付けられている。箸墓が倭迹迹日百襲姫の墓であり、魏志倭人伝の記す卑弥呼の冢墓であることは間違いなかろう。しかし、現代の考古学者は「箸墓=卑弥呼の冢墓説」を認めても、それが倭迹迹日百襲姫の墓であるとは認めようとしない。六世紀以前の記・紀の記述は造作だから、というわけである。事実によって検証するのではなく、イデオロギーによって検証しようとする。まことに奇妙な話である。
 孝霊天皇が倭迹迹日百襲姫を倭国の女性最高司祭者(倭女王=巫女王)に擁立して我が国最初の統一国家形成を試みたのは、帯方郡との交易ルートの確保が有力な動機になっていたと思われる。後漢王朝の衰微に乗じて二世紀末から渤海湾東部で自立の勢いを見せ始めた公孫氏が、三世紀初頭に楽浪郡から帯方郡を分置して倭・韓の地に影響力を強めると、それに呼応して、孝霊天皇は大和を盟主とし、畿内とその周辺、瀬戸内海、北九州諸国を糾合した倭国連合国家を形成し、その女性最高司祭者として倭迹迹日百襲姫を擁立したのであろう。これは、聖なる祭事を司る「日女=姫」と俗なる政事を司る「日子=彦」の共治体制である。
 さらに、二三八年に公孫氏が魏によって滅ぼされると、その翌年(景初三年)、倭女王卑弥呼(日女子・姫子)の名(というよりも称号)で直ちに魏に遣使し、卑弥呼は「親魏倭王」に柵封されて金印紫綬・銅鏡・絹織物など豪華な下賜品を受けている。孝霊天皇は、これら大陸の文物を独占し、また当時の倭人が銅鏡の中でも特に好んだ三角縁神獣鏡を大和の鏡作郷(奈良県田原本町。孝霊天皇のいお と 廬戸宮伝承地の近くには『延喜式』神名帳に大社として記されている鏡作坐天照御魂神社があり、ここには外区を欠く三角縁神獣鏡が神宝として伝世されている)において大量複製することによって、倭国の統一を進めようとしたのであろう。呉に対抗する魏の思惑を巧みに利用して得た「親魏倭王」の権威も、大いに役立ったに違いない。
 そうした孝霊天皇の試みに対抗したのが、『先代 旧事 (く じ)本紀』国造本紀に見えている「久努(くぬ)国(静岡県袋井市あたり)」を中心とする東海連合であろう。それを支えた氏族は、「ニギハヤヒの命」を祖神とし、同族を称していた尾張氏と物部氏と思われる(実際は、尾張氏が海人族、物部氏は天孫族)。国造本紀によれば、東海諸国の大半を占める七カ国の国造の祖が尾張・物部氏とされている。発生期の古墳の形式についても、畿内が前方後円墳であるのに対し、東海地方は前方後方墳が卓越しており、それに先行する弥生時代後期には三河・遠江地方を中心にして畿内地方とは異なる三遠式銅鐸が発達している。この東海連合が魏志倭人伝の記す「狗奴国」の実態であろう。ただし、畿内以西の倭国連合国家との対立は、卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)の突然の死をもって終焉したと思われる。箸墓の築造は両者の和解の証でもあっただろう。
 以上、紙数の制約もあり、核心的な問題に触れるにとどめた。詳しくは筆者の『大和は邪馬台国である』(東方出版)を参照していただきたい。


神武東征論

  戦後の歴史学にとって神武天皇はタブーである。敢えて神武天皇を引くときは、「架空の人物である」と断わり書きを入れるか、その存在を否定する場合に限られていた。さもなければ、論述の一切が無視される。戦後の歴史学にとって神武天皇は否定の対象でしかなく、敵か味方かを判別する踏絵にすぎなかった。さらに言えば、神功皇后と共に神武天皇を否定することが先の「侵略戦争」を懺悔した証とされ、それをいっそう進めることが学問の進歩とされたのである。これを倦まずたゆまず実践してきたのが、筆者の言うところの「戦後の歴史学」である。
 神武天皇否定の論拠の一つは、その即位が紀元前六六〇年の辛酉年とされていることである。これが『日本書紀』編纂時に讖緯説によって虚構されたものであることは明らかであるが、編年体で史書を編むために紀年が作為されたからといって、それが神武伝承を否定する論拠とはなりえない。筆者が大学卒業年次を間違えたからと言って、筆者が大学を卒業した事実までが虚構と言えないのと同等である。
  また、神武伝承が説話的あるいは神話的であるとして神武天皇の存在を否定する。古い伝承が説話的神話的なかたちを取るのは当たり前であり、そこに史実が含まれているか否かは確かな方法に拠って検証されなければならず、現代の歴史学者が恣意的に説話とか神話と決めつめて伝承そのものを否定するのは慎まなければならない。神武天皇が神格化されているのを否定の論拠とするのも解しがたい。徳川幕府を開いた家康が「神君家康公」「東照大権現」などと神格化されているからといって、それが家康実在の否定の論拠とならないのに同じである。
 さらに、神武東征伝承において「日向進発」「熊野迂回」などを額面どおりに受け取った上で、その矛盾を指摘し、あるいは後世の作為を指摘して、それでもって神武天皇を否定するというのも問題である。伝承に錯誤は避けられないし、それぞれの時代の精神や思想によって伝承が改変されることも少なくない。皇室の開祖ともなれば、なおさらであろう。そうしたことを根拠に伝承全体を否定するのは論理の倒錯である。むしろ、われわれがなすべきことは記・紀やその他の古文献を綿密に比較検討し、本来の伝承がどのようなものであったかを出来る限り復元して、その虚実を確かな史料で検証することでなければならない。
 『日本書紀』は神武天皇と崇神天皇を共に「ハツクニシラス天皇」としている。記・紀を否定することが学問の進歩だと疑わない人たちは、これをもって最初に国を治めた天皇が二人もいるというのはおかしいとして、崇神・神武同一説を唱える。つまり、我が国の建国を古くするために、本当は崇神天皇が初代の「大王」にもかかわらず、その崇神天皇を二人に分断して神武天皇を造作し、その間に欠史八代をはめこんだと、見てきたようなことを言うのである。しかも、紀年を延長するために、それらの天皇の宝算を異常な長寿にしてしまったと言う。
 『日本書紀』は崇神天皇の称号を「御肇国」と表記し、『古事記』は「知初国」と表記しており、共に「はつくにしらす」と読める。これは五世紀後半に倭国統一国家の形成過程を記した物語(「帝紀」「旧辞」の核になるもの)が初めて筆録されたおり、その初代の倭国王に贈られた称号であろう。一方、『日本書紀』は神武天皇を「始馭天下之天皇」と号している。これは「ハジメテアメノシタシラシメス天皇」と読むべきであろう。我が国に独自の「天下」の思想が生まれた五世紀以降、おそらく『日本書紀』編纂時に「万世一系の皇祖」として構想された称号であろう。記・紀に記された神武天皇と崇神天皇の時代の戦争や祭祀は全く性質が違っているし、崇神天皇が九州から大和に乗り込んできたとうかがわせるような記述も一切ない。崇神・神武同一人物説はためにする説でしかない。また、紀年を延長するために長寿の天皇八代を造作して後世の人たちに疑われるようなことを敢えてするよりも、常識的な宝算の天皇を二十代でも三十代でも増やせばよかったのである。それをしなかったのは、埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘にも見えているような八代の直系系譜(ただし、皇位継承者の系譜を父子系譜に誤った可能性がある)が伝承されていたからであろう。異常な長寿も確かな伝承があったために、それを残したのであろう。その長寿伝承が紀年延長の資料になったのである。
 戦後の歴史学が神武天皇を否定する論拠に確たるものは何もない。それ故、かれらは『日本書紀』編者の「机上の創作」と言い募るのである。しかし、それとて確かな証拠を提示したわけではない。むしろ、東征した神武の軍船が「難波碕」から「河内国の草香邑の青雲の白肩之津(東大阪市日下町)」に押し入り生駒山ふもとに上陸したというのは、弥生時代後期の大阪湾が内陸部に大きく湾入していた地形を反映したものであり、淀川と大和川の堆積作用により湾口部が低湿地化していた八世紀当時、役人が机上で創作したこととは考えられない。
  もちろん、神武東征伝承の中には後世に付加された伝承も少なくない。東征軍が日向国から進発したとするのは、景行・応神・仁徳天皇に出仕した日向出身の皇妃たちの影響が考えられるし、河内でながすね長髄彦に行く手をはばまれた神武軍が熊野に迂回したというのも、崇神・景行・継体などに皇妃を入れた尾張氏(熊野迂回で神武軍を助けたたかくらじ高倉下は尾張氏の祖とされている)などの伝承が後宮を介して架上されたものであろう。その他、記・紀に見られるような神武東征伝承が成立するまでには、物部氏・鴨氏・大伴氏など多くの氏族伝承が取り込まれたはずである。
 もともとの神武東征伝承は、「彦火火出見が筑紫から大和に向けて東征したが、在地勢力の反抗に遭って河内から大和には入れず、やむなく紀ノ川沿いに吉野まで迂回して大和盆地南部に押し入った」という程度のものであっただろう。なお、神武天皇が即位した時代は、崇神崩年=二九〇年として、そこまでに神武天皇から十代を数えるので、古代天皇(第十一代垂仁天皇〜第五十代桓武天皇)の一代平均在位年数一二・九年(空位年は無視する。以下同)を採用すれば西暦一六二年ごろになり、十一代以降の歴代天皇(十一代垂仁天皇から第一二四代昭和天皇)の平均在位年数一四・九年を採用すれば西暦一四二年となる。いずれも不確かな推計値なので、神武天皇の即位は、ほぼ二世紀半ばとしておけば無難であろう。
 筆者の以上のような推論は、和辻哲郎が昭和二十六年に刊行した『新稿日本古代文化』において展開した主張と変わらない。和辻哲郎は皇室が自らの出自を権威付けるために九州から来たと作為する必要がないとしたうえで、畿内で盛行した銅鐸の知識が後の大和朝廷に伝わっていないこと、筑紫地方の剣・鏡・玉の文化が大和の古墳文化に連続していることなどから神武東征を肯定して、その進発地を筑紫とし、その時代を二世紀としたのである。記・紀の記述と当時の考古学の成果を整合させた極めて常識的な見解と言わねばならない。歴史学者の肥後和男、考古学者の中山平次郎やその弟子を自認した原田大六らも、ほぼ同様の見方を示している。
 記・紀は神武天皇が「日向国」もしくは「日向」から進発したとするが、記・紀の神代を探索すれば、本来の地はイザナギ神が禊をして住吉大神や綿津見神を生んだとされる「筑紫の日向」であろう。天孫降臨の地も『古事記』および『日本書紀』一書では「筑紫の日向」となっているが、『日本書紀』本文および他の一書では「日向」と記されており、すでに「筑紫の日向」から「日向」への改変が見られる。「日向」の国名は景行紀十七年条にあるように景行天皇の九州征討のおりに名づけられたとされており、神武東征のおりにはまだ存在しなかったことになる。また、筑紫を「筑紫島(九州島)」と取り、その下に国名を表記するという例(たとえば「筑紫の豊」)は見当たらないので、「筑紫の日向」という呼称は本来、「筑紫国の日向の地」を指したものであったが、日向国の存在が知られるようになって以降、おそらく日向の豪族の女を皇妃に迎えるようになって以降、「筑紫の日向」から「日向国」への伝承上の改変が始まったのであろう。日向国における記・紀神話や神武天皇の関係地なるものは記・紀成立後に創作された伝承地に他ならない。日向進発の非合理性をもって神武伝承を否定する津田左右吉の論拠は薄弱と言わねばならない。
 イザナギ神が禊をして住吉大神や綿津見神を生んだとされる「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)」は福岡市博多区の住吉神社の西に伝承地がある。かつては、このあたりまで海であったという。綿津見神を祭る志賀島にも近く、住吉神社の鳥居は志賀島を拝するかたちになっていた。「筑紫の日向」が博多湾岸にあったことは間違いないだろう。『古事記』神代記は、ニニギのみこと尊が降臨した「竺紫(つく し) の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」について、「ここ此地は韓国に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を真来(まき)通りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。かれ故、此地はいと よ 甚吉き地(ところ)」と記しており、「韓国に向かう地」といえば筑紫に他ならず、その「日向」は「日に向かう吉き地」を言ったものであろう。また、『日本書紀』神武紀には「東に美(よ)き地(くに)あり」と塩土老翁(しほつちのをぢ)から聞いて神武天皇が大和をめざしたとあるが、日向国からなら大きく北進してから東進せねばならず、方向も東北になる。日向国から真っすぐ東進すれば、太平洋に出てしまうのである。それに対し、筑紫国からなら瀬戸内海を東進すれば、その先に大和がある。 
 『日本書紀』は神武天皇の諱(いみな)を 「彦火火出見」とし、「神日本磐余彦火火出見(かむやまといはれひこほほでみ)天皇」と称している。「神」は皇祖に対する美称、「日本」は『古事記』に同じく、もともと「倭」と表記されていただろう。問題は「磐余彦」だが、この「磐余」は地名ではあるまい。古代天皇の諡号に「やまと」「いはれ」のように地名を並べた例が外に見当たらないし、磐余の地は神武東征まで「片居」もしくは「片立」と呼ばれたとあり、しかも畝傍山のふもとで即位した神武天皇を「磐余の首長」とする根拠は薄い。むしろ、聖なる始祖が岩から生まれたとする思想(天孫降臨の際にも「天磐座(あまのいはくら)を離(おしはなち)」とある)から名づけられた「磐生(いはあ)れ彦」と解すべきであろう。「いはれ」は「いはあれ」の転化として十分説明できる。それを音が似通った「磐余」の地名と混同するようになったのは、神功皇后や履中・清寧・継体などの諸天皇が磐余に宮を置くようになって以降のことと思われる。
 神武天皇の諱は、「筑紫の日向の高千穂峯」に降臨した天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)の子、彦火火出見尊に同じである。その系譜も神武天皇に酷似していることから、津田左右吉はこれを神統譜によって神武を造作したとする。だが、事実は逆であろう。東征以前の「筑紫の日向」における彦火火出見尊(神武)は、後世、皇祖として神格化され、新たな系譜や民間神話も付け加えられるに連れ、いつしか神代のこととして物語られるようになってしまったのであろう。事実、『古事記』によれば、二人の「ホホデミの尊」は共に「高千穂宮」に住んでいるのである。
 神武東征伝承の祖型は、「ニニギの尊」が高天原より「筑紫の日向」に降臨し、その子である「ホホデミの尊」が「筑紫の日向」より「大和」へ東征あるいは降臨したというものであっただろう。その経路は[図3]のようなものであったと思われる。記・紀が神武東征以降を人代とし、それ以前を神代としたために、「ホホデミの尊」は神と人に分離されてしまったのである。記・紀神話が体系的な神話としてまとめられるのは、それ以降のことになる。
 以上のように神武東征伝承を復元し、それを二世紀半ばのこととすると、中国史料や考古学資料とも整合してくる。
前漢武帝によって紀元前一〇八年に楽浪郡が設置される。これ以降、半島や列島の諸民族は前漢帝国の影響下に置かれ、当時百余の小国に分かれていた倭人も「歳時を以って献見」したと、『前漢書』地理志に記されている。さらに『後漢書』は、西暦五七年に倭の な 奴国が後漢に「奉貢朝賀」し、光武帝より印綬を賜ったと記している。このときの印綬が福岡県の志賀島より出土した「漢委奴(かんのわのな)国王」の金印であろう。「奴国」は博多湾沿岸にあったと思われる。次いで西暦一〇七年には倭国王すいしょう帥升らが即位したばかりの後漢安帝に生口一六〇人を献じ、「請見」を願っている。しかし、『後漢書』は帥升に「倭国王」の印綬を与えたとは記していない。おそらく安帝は帥升が北九州の数カ国しか支配していないことを知っており、それを倭人の代表として遇しても、「倭国王」とは承認しなかったものと思われる。
 前漢・後漢に朝貢し、対馬・壱岐を介した楽浪郡との交易ルートを支配していたのは、奴国と伊都国(福岡県前原市)を核とする筑紫連合王国であろう。この連合王国は楽浪郡との交易ルートを掌握して大陸の高度な文物や金属素材などを独占したばかりでなく、それをテコに、装身具や葬具として珍重されたゴホウラ・イモガイ・スイジガイなどを求めて薩摩半島南部を中継地とし琉球や南西諸島と交易した「貝の道」や、畿内に至る瀬戸内海ルートをも掌握する交易国家であった。その繁栄は、奴国や伊都国に当たる地から弥生時代中期・後期の王墓が多数発見され、剣・玉に加えて大量の漢鏡が出土していることによっても窺い知ることができる。この剣・鏡・玉を副葬する文化が神武東征によって北九州から畿内にもたらされたと、考古学者の原田大六は主張している。
 神武天皇が「東に美き地あり」として大和に東征しようとした原因は、二世紀半ばころから後漢が衰微し、楽浪郡との交易ルートを生命線としていた筑紫連合王国もまた衰微していったことにあろう。その王族の一人が彦火火出見(神武天皇)と考えても何ら不都合はあるまい。交易国家としての存立が危うくなった筑紫連合王国にとって、背後の筑後や肥前・肥後には吉野ヶ里遺跡に見られるように強力な在地勢力がおり、瀬戸内海の向こうに広がる畿内や東国は頼むべきフロンティアであっただろう。すでに神武東征以前にも、あめわか天稚彦やにぎはや ひ饒速日などが次々にあしはらのなかつくに葦原中国に降臨していたとする伝承が記・紀に残されている。そうした情報をもとにして、彦火火出見も東をめざしたのであろう。
 北九州勢力の東征を考古学的に傍証するものは、森岡秀人の高地性集落の研究(『考古学研究』一六八・一七一)であろう。森岡は丘陵上など高所に築かれた高地性集落を「軍事的防御的要素の強い集落」とし、弥生時代中期から古墳時代初期までを五段階に区分している。高地性集落が展開された地域は北九州、瀬戸内海、畿内であるが、いずれも重要な交易ルート沿いにあり、見張り台やノロシ台なども含まれていよう。森岡の論文を簡略にまとめたのが[表5]で、神武東征は表六甲・紀伊北中部・大和南部に高地性集落が築かれた第三段階に相当するだろう。
  配下の軍事集団である久米部を率いて吉野川流域から大和盆地に入った彦火火出見は、盆地南東部の磯城地方と盆地南西部の葛城地方の境界領域に当たる畝傍山ふもとに拠点を置いたと思われる。これがのちに「始馭天下之天皇」と称された神武天皇である。その第七代目に当たる孝霊天皇の時代になって、遼東地方に拠って勢力を拡大した公孫氏が支配する楽浪郡との交易ルートを回復する必要から、北九州・瀬戸内海・畿内地方を糾合し、倭迹迹日百襲姫を女性最高司祭者とする倭国連合国家の成立を図ったのであろう。あるいは倭国統一のために楽浪郡との交易ルートの回復が欠かせなかったのかもしれない。これが魏志倭人伝のいう「倭国大乱」の時代に当たり、[表5]の第四段階に当たるものと思われる。
  充分に論を尽くせなかったが、「神武東征伝承」は我が国の統一国家形成過程を考えるにあたって、すこぶる有効な仮説と言えよう。その東征の時期を紀元前六六〇年より八〇〇年ほど遅い二世紀半ばのこととすれば、中国史料や考古学資料とも矛盾をきたさない。


記紀以前の修史事業

 記・紀の記述は、紀年を正せば、北九州に萌芽する国家統一の歴史を大筋において反映していると言えるのではあるまいか。しかし、六世紀以前の記・紀の記述を「机上の創作」とする戦後の歴史学は、こうした建国史を否定し、我が国の古代史が高度に集権化された律令国家建設時代から突然のように始まったとするのである。その前史にしても、せいぜい六世紀の継体〜欽明朝までしか容認しない。こうした記・紀に対する偏向は大いに問題があるとしなければならない。
 記・紀において帝紀的記事は概ね一致している。その陵墓について言えば、磐余地方に二〇〇メートルを超す巨大な前方後円墳が二基あるにもかかわらず、それを神武天皇の陵墓とはせず、また、葛城地方にある「室の大墓」のような240メートルもの巨大古墳も欠史八代の陵墓とはされていない。神武天皇や欠史八代を虚構したというなら、そうした天皇の権威を高めるために、なぜ巨大古墳を陵墓としなかったのか。いかに巨大な古墳であれ、それが陵墓であるという伝承がなかったからである。また、倭迹迹日百襲姫の箸墓に始まる大和(おおやまと)古墳群(天理・桜井市)、佐紀盾列古墳群(奈良市)、古市古墳群(羽曳野市など)・百舌鳥(もず)古墳群(堺市)という陵墓の変遷は、大筋において現代の考古学の編年と一致する。八世紀の記・紀編者に、現代の考古学的知識があったとは思われない。確かな伝承があったのである。継体天皇などの陵墓比定に問題があるのは記・紀のせいではなく、考古学的知識のなかった江戸から明治かけての陵墓比定が間違っているに過ぎない。天皇の宮についても筆者はその伝承地をたどってみた(『神々と天皇の宮都をたどる』文英堂)が、記・紀の記述に矛盾を感じるようなところはなかった。むしろ、それらを記・紀編纂時代の知識によって机上で創作することなど不可能に思われた。
 ただし、先にも指摘しておいたように、皇系譜については第十二代景行天皇以前の系譜は皇位継承者を示していた職掌系譜が伝承の過程で父子系譜に紛れてしまった可能性がある。また、雄略天皇以前における大陸王朝への朝貢関係は、「遣唐使を送りながらも柵封体制からは離脱する」という七、八世紀の微妙な政治状況を反映して、巧妙に隠蔽されている。『日本書紀』では表記の統一や漢文的文飾が早くから指摘されているが、梅沢伊勢三が『古事記と日本書紀の検証』において主張するように、漢文的文飾は「帝王本紀」など記・紀に先行する文献にもすでに存在していた可能性が高い。『日本書紀』は、それを踏襲したのであろう。むしろ『日本書紀』においては、『古事記』序文に記されているような「削偽定実」を行なわず、異伝を排除せず、できるかぎり古伝承を残して後世の判断を待つという態度が一貫して採用されている。古代史の貴重な史料として『日本書紀』を再評価すべきであろう。
 六世紀半ばに初めて「帝紀」「旧辞」がまとめられたとする津田左右吉の説は、何ら根拠がない。すでに紀年解読のおりに述べたように、「ハツクニシラス天皇」に始まる古代統一国家形成過程(第十代崇神天皇から第十七代反正天皇まで)を物語る歴史が五世紀半ば頃にまとめられたと思われる。これが「帝紀」「旧辞」の核になったのであろう。それにしても、なぜ、允恭・雄略天皇のころに修史事業が必要になったのであろうか。その答は『宋書』倭国伝に見えている「倭の五王」の遣使記事にある。
 讃(仁徳天皇)に次いで四三八年に宋に遣使した珍(反正天皇)は、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」を称し、除正を願うが、太祖文帝が認めたのは「安東将軍・倭国王」に過ぎなかった。「都督諸軍事」号は特定地域の軍事的支配権を司る官職である。珍は倭国のみならず朝鮮半島南半部にあった韓族諸国の軍事的支配権を要求したにもかかわらず、その正当性を太祖文帝に認めさせることができなかったのであろう。そこで、倭国は自らの統一国家形成過程を明らかにし、神功・応神以来、朝鮮半島南半部に確保していた軍事的影響力の正当性を主張する歴史が必要になったと思われる。
 珍に次いで立った済(允恭天皇)は、四五一年の遣使のおり、「安東将軍・倭国王」に加えて「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に除せられている。宋はすでに柵封を受けている百済を除き、それに替えて任那の主要国である加羅を加え、倭王の要求に答えたのである。これらの称号にどれほどの実質があったかは定かでないが、文帝のとき、東アジアの冊封体制の中で、倭王が倭国のみならず朝鮮半島南半部までの軍事的支配権を認められるに足る根拠を示し得たのであろう。さらに、順帝の昇明二年(四七八年)、武(雄略天皇)は「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とする上表をし、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に除せられている。武の上表文に見えている「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」は、初めての修史事業の成果を簡略にまとめたものであろう。
 筆者は紀年の比較研究から反正天皇以前の古代統一国家形成過程が最初に記録されたとしたのだが、黛弘道は応神天皇の五世孫とされる継体天皇の系譜が記・紀において一部不明になっていることの考察から、「帝紀」「旧辞」について、「現存の『古事記』に即して考えれば、反正以前をまずまとめ、ついで、允恭ないし顕宗のころ(五世紀の中・末期)までを付加し」、「仁賢以降については、その後かなり機械的に断片的な系譜的事実を付加していっただけ」と主張している(『古代の日本』9研究史料)。これは筆者が紀年論で得た見解に同じである。応神天皇の五世孫として皇位に迎えられた継体天皇の時代には皇統に対する意識が先鋭化していたはずだから、このころまでには神武天皇を初代とする皇統譜も成立していたであろう。それは新しく系譜を創作したというのではなく、鎌倉将軍源頼朝から始まっていた系譜を八代前の源経基(清和天皇の皇孫)からの系譜に改めるようなものと考えてもらえばよかろう。
 五世紀半ばの初めての修史事業によってまとめられた帝紀・旧辞においては、すでに見たように「春秋暦」「一町里」「阡=東西、陌=南北」など、我が国は大陸と別個の暦・尺度・方位を使っていた可能性が高い。こうした「暦・里・方位」が大陸のそれによって取って代わられるのは、欽明紀十五年(五五四)の条に「百済が五経・易・暦・医博士を奉る」と記された六世紀半ば以降のことであろう(ただし、大陸や半島からの渡来人の間では早く使用されていたかもしれない)。記・紀において欽明天皇以降の治世年数に差があるのも、六世紀半ばに百済から越年称元法が伝来し、それまでの当年称元法と混用されたためと考えられよう。
 五世紀半ばの修史事業から百数十年たった推古二十八年(六二〇)、聖徳太子と蘇我馬子によって「天皇記」「国記」が編纂されている。この本核的な修史事業において、先行する民間伝承や神話を統合し、記・紀に見られるような高天原神話を核に据えた体系的な神話がまとめられたのであろう。『日本書紀』神代紀に採用されている数多くの異伝が成立する(しかも異伝そのものがすでに体系的な神話である)には、六四五年の蘇我本宗家の滅亡(乙巳の変)による「天皇記」の焼失、六七二年の壬申の乱など、多くの氏族を巻き込んだ社会変動なくしては考えられないからである。体系神話が記・ 紀編纂時につくられたとする説には賛同できない。
 天武十年(六八一)に、川嶋皇子ら一二人に詔して「帝紀」「上古の諸事」を記定したことに始まる天武天皇の修史事業は、和銅七年(七一四)の『古事記』編纂、養老四年(七二〇)の『日本書紀』編纂に受け継がれていく。『日本書紀』は聖徳太子の修史事業百周年を期して編纂されたのであろう。それは讖緯思想によって神武天皇の即位を紀元前六六〇年の辛酉の年とした際、その起点を推古九年(六〇一)の辛酉年に置いていることからもうかがえる。その前年に、聖徳太子は国書に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と記す六〇七年の対等外交の露払いとして、小野妹子を隋に派遣し、六〇一年の辛酉の年には、隋との対等外交に相応しい国造りをする場として斑鳩宮造営を始めている。以降、矢継ぎ早に聖徳太子の新政が進められていく。『日本書紀』編者にとって、それが天武天皇の理想とした「天皇を頂点に置く中央集権国家建設」の始まりと観念されていたのであろう。


独自な文明の表白としての天皇号

 前漢の武帝が楽浪郡を置いた紀元前一〇八年以降、我が国は大陸や半島との関係を深めていき、西暦五七年からは大陸王朝の冊封体制(中華思想の下、封建的臣従関係を国外にまで拡充した東アジアの国際体制で、柵封国は朝貢の義務を持つ)に組み込まれて、倭国という統一国家の形成を進めていく。最初に産声を上げたのは楽浪郡との交易ルートを掌握した筑紫連合王国であった。しかし、この連合王国は一〇七年の遣使以降、大陸王朝との正式な朝貢記録を残していない。遣使が途絶える百年余り、倭国では「神武東征」「倭国大乱」をへて統一国家形成の核が北九州から畿内へと移動する。そして、畿内周辺・瀬戸内海・北九州の諸国を糾合し、倭迹迹日百襲姫を女性最高司祭者(倭女王=巫女王)として統一国家の形成を試みた孝霊天皇は、二三九年に倭女王卑弥呼の名をもって魏へ遣使するのである。
 女性最高司祭者を女王として戴いた「邪馬台国」時代の遣使は二六六年の晋への朝貢をもって終り、正式な遣使記録は四一三年まで消える。その間、ハツクニシラス天皇(崇神)によって「ヒメ・ヒコ」制という祭政二元体制を止揚した大和朝廷は、倭王武(雄略)の上表文に「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」と記された国家統一を推し進めていく。そこでは武力の行使ということもあったであろうが、むしろ大陸の柵封体制にならって地方の豪族の支配権を認め、その証として大和朝廷と同じ規格の前方後円墳の築造を許すというものであっただろう。これがのちに国造制(古代の封建制)へと展開していく。さらに神功皇后・応神天皇の時代になって、武の上表文に「渡りて海北を平ぐること九十五国」と記す半島への進出となり、高句麗と半島の覇権をめぐってぶつかり合う。この戦いは倭国が劣勢であったようだ。そこで倭国は大陸南部の宋の冊封体制下に入り、その権威の下に半島での軍事的劣勢を覆そうとした。これが仁徳天皇から雄略天皇に至る「倭の五王」の時代である。
 しかし、大陸王朝の冊封体制下で倭国は何ら実質的な利益を得られず、四七八年の雄略天皇の遣使以後、冊封関係を留保することになる。その間、倭国は大陸とは違った独自の「天下」を構想しつつ、独力で半島政策を推し進め、大陸の文物は西蕃と見なしていた百済を介して導入していった。しかし、めまぐるしく変転する大陸王朝と百年余り冊封関係を留保しているうちに、五八九年、大陸は隋によって統一される。この新たな事態に対して、聖徳太子は六〇〇年、六〇七年と相次いで遣随使を送り、独自の天下観をもって東アジアにおける画期的な対等外交を試み、天皇を頂点に置いた中央集権国家の形成を構想するのである。
 確かな朝貢記事が残る五七年以降、我が国は大陸王朝に朝貢し、その冊封国(属国)となることによって統一国家の形成を有利に進めていった。その間、大陸や半島と適度に海を置いて隔てられている地政学的優位さを大いに活かして、三度にわたり、百年余り大陸王朝との国交を中断し、その間、国家統一や内政の充実に励んだのである(こうした手法は近代にまで及んでいる)。それに対し、半島諸国は陸続きの大陸王朝の干渉を不断に受け、また我が国の度重なる軍事的介入もあって、統一国家の形成は七世紀後半まで待たなければならなかった。
 我が国に大陸とは別個の天下の思想が生まれるのは「倭の五王」の時代である。同時代の確かな記録として残っているのは雄略天皇のときで、埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘に「わかたける獲加多支鹵大王……吾左治天下」、また江田船山古墳出土大刀銘にも「治天下わかたける獲□□□鹵大王」と見えている。「治天下」は「アメノシタシラシメス」と訓める。「ワカタケル」は雄略天皇の御名である。大王は「オオキミ」と訓むが、これは「キミ(君・王)」の尊称であり、宮崎市定が言うように称号ではない(「天皇なる称号の由来について」『思想』昭和五十三年四月)。すでに天皇号が成立している奈良時代でも『万葉集』に見えている大伴家持の歌に「大王の遠の朝廷」(巻一七)とあるように、「大王」は国内的な尊称として使われていたのであろう(別の家持の歌に「天皇の遠の朝廷」の例もある)。なお、初期万葉歌人の額田王のように、女性の「王」も「オオキミ」と呼ぶ。このような汎称的な言葉が七世紀後半まで我が国の君主号であったとは思われない。
 雄略紀五年七月の条に引かれている「百済新撰」に、我が国の天皇をして「天王」とする表記が見えている。これは、四世紀から五世紀にわたって大陸の南北朝時代に皇帝に次ぐ称号として盛んに使われたものであり、朝鮮半島南半部に軍事的支配権を主張していた倭国王が、半島諸国に対する称号として「天王」号を使っていた可能性は充分にありえる。「天王」号は、列島と半島南半部を覆う「天下」の主権者に相応しい称号と考えられたのであろう。
 天王は「アミキミ」と訓んだのであろう。六〇〇年の遣隋使も煬帝に対して「アメキミ」と号している。倭国王が半島諸国に対してのみならず、中華帝国の皇帝に対しても「アメキミ」を称し、六〇七年の遣使では国書に「日出る処の天子」とあったことが『隋書』倭国伝に記されている。天子とは天命を受けた人であり、皇帝を意味する。その皇帝が支配する「天下」とは一つの文明世界に他ならない。五世紀から六世紀の間に、我が国は大陸とは異質の文明世界であることを認識し始めたのであろう。聖徳太子が煬帝に送った六〇七年の国書は、大陸とは別個の天下の宣言であり、東アジアにおける画期的事件だったのである。その「アメキミ」の漢字表記が「天王」から「天皇」へと変化したのは、煬帝への国書に推古天皇を「日出る処の天子」と称したときであろう。そうでなければ、つまり「天王」や「大王」ならば、『隋書』倭国伝が煬帝を指す「日没する処の天子」と並べて推古天皇を指す「天子」の語を残すはずがないし、煬帝の怒りをかうこともなかったはずである。「天皇」を「テンコウ」でなく「テンノウ」と呉音で訓むのも、宮崎市定の指摘するように、それ以前に広く「天王」号が受け入れられていたからに相違あるまい。
 我が国の統一国家形成期にあたる六世紀以前の古代史は、「日本」を冠した民族・国家・文明のアイデンティティの根幹をなすものである。日本人は大陸王朝の冊封体制に入りながらも独自の天下を構想し、七世紀に至って隋との対等外交を打ち立てた。大陸と別個の「天下」とは、東アジアを覆っていた冊封体制からの政治的独立を意味するばかりでなく、日本が自らの文明を大陸のそれとは違うものであると認識したことを意味している。天皇号の成立は、その対外的な表白に他ならない。六世紀以前の数百年にわたって、我が国は営々とそれを準備したのである。そして、七世紀になって「天皇記」が編纂され、その一世紀後に『日本書紀』が編纂されるのである。天皇号と日本国号がワンセットになるのは天武・持統朝においてである。
 皇国史観を裏返しにして唯物史観と素朴実証主義を癒着せしめた戦後の歴史学は、六世紀以前の記・紀の記述を否定する。それは、我が国の統一国家形成過程の否定であり、その過程において「ヒコ」「ネコ」「キミ」「タラシ」などと多様な称号を模索しながら五世紀の対外関係を契機にして生まれた「天王」号を介して「独自な文明の表白としての天皇号」が成立した、という史実を否定したいがために他ならない。そして「万世一系の天皇」を否定するために、六世紀以前の記・紀の記述を「机上の創作」とする。しかし、そこに確たる証拠は何もない。神武天皇以来、皇統が絶えることなく継続してきたとする記・紀の記述を否定する論拠は、イデオロギー的なものにすぎない。戦後の歴史学にとっては、「日本的なるものの否定」「天皇制の否定」が究極の目標なのである。だから、「天皇」に代えて、尊称に過ぎない「大王」を至るところで正当化しようとする。いわく「大王の時代」、いわく「大王の墓」……。さらには「大和朝廷」に替えて「大和王権」などと言う。こうした傾向は冷戦終結後、ことに顕著になってきた。
 強大な隋・唐文明を前にして律令国家形成を急がなければならなかった七、八世紀と、欧米文明を前にして急速な近代化を達成しなければならなかった十九世紀、この二度にわたる強力な文明の風圧に対抗しなければならなかったとき、日本人は自ら拠って立つ文明の根幹を「大和魂」と表現した。そして当時の強大な大陸文明(隋・唐文明)を「漢」と捕えて「和魂漢才」を主張し、大急ぎで大陸文明を導入して中央集権的な古代律令国家を打ち立てた。そのバネになったのは白村江での無残な敗北と半島での権益の喪失であった。また、ペリー来航が象徴するような、自然科学を武器にした圧倒的な西欧文明の強圧を前にしたとき、日本人は「和魂洋才」を掲げて強力な近代国民国家を打ち立てた。
  そうした民族・国家・文明の危機的状況に当たって、日本人が常に自らの独自性を表白して困難に立ち向かうために欠かせなかったのが、大和魂を体現した「国柄」であり、その象徴としての「天皇」であった。そして、国家の構造を一新するためには「天皇」の居られる場所を移す遷都が不可欠だったのである。唐文明に対応しては、六九四年の藤原京遷都から七九四年の平安京遷都までの百年間に三度、そしてヨーロッパ文明に対しては、近代の東京遷都が挙行された。それに対し、内発的な国家の構造改革においては、鎌倉幕府や江戸幕府に見られるような首都機能移転で対応した。現在の首都機能移転問題も同じで、その場合、「天皇」の居られる場所を移す必要はないのである。
 さらに言えば、「天皇」が問題になるときは皇祖「神武天皇」が問題になるときでもある。古代最大の内乱といわれる壬申の乱においては「神日本磐余彦天皇の御陵」の祭祀が行なわれ、その後の修史事業では皇祖とあがめられて「始馭天下之天皇」と称されたし、明治維新においては「神武の創業に戻れ」と叫ばれた。しかし、今、国家・文明の危機に当たって神武天皇は虚構の存在として捨て去られ、歴史学者たちは古代天皇を「大王」なる奇妙な尊称で呼ぶように国民を洗脳している。先の大戦でも外国軍隊による占領という未曾有の事態を前にしたとき、我が国は「国体護持」を唯一の条件としてポツダム宣言を受け入れたのだが、この五〇年余りのうちに、日本人は「国体」と言えば「国民体育大会」の略称だと思い込むまでに、自らの大切なものを喪失してしまったのである。
 日本人とは「日本という文明」を自ら体現する者に他ならない。「鮮やかな四季をもつ美しい風土」「全てを包み込む変幻自在の日本語」「独自な文明の表白としての天皇号」、その三位一体が日本という文明なのである。どの一つが欠けても日本という文明は危うい。日本人は異国に暮らして三世代もたつと日本文明を失ってしまう。それは日本へ出稼ぎに来る南米移民の子孫を見れば明らかである。何世代と異国に住もうが自らの文明を失わない中国人やユダヤ人とは違うのである。
 二十一世紀に影響力をもつと思われる文明のうち、一国一文明なのは日本とイスラエルのみであるが、イスラエルは国外に自国民に倍する同胞を有し、「ユダヤ教」「旧約聖書」という強固なアイデンティティを持つ。ところが、現在の我が国は記・紀を否定し、六世紀以前の古代史を否定して自らのアイデンティティを失おうとしている。それは、日本人の祖先が東アジア世界の中で自らの国家を形成し、自らの依拠する文明の独自さに気づいた時代の喪失である。
現代の東アジアの情勢は日本が天皇号を生み出したころの時代と酷似している。そんな中で、戦後の歴史学は、ひたすら日本という文明の根幹を否定しているのだ。誰も、それを不思議と思わない。ここに現在の日本の深い精神的危機がある。