戻る

紀年解読
──『古事記』崩年干支と『日本書紀』紀年の比較による新たな古代史の試み(図表略)

                               
戦後の歴史学
戦後の歴史学は「厳密な史料批判」の名の下に、六世紀以前の記・紀の記述を否定し、ひたすら、同時代の記録の類のみを確実な史料として古代史像をつくりあげようとした。この素朴な実証主義の先駆は、一九四〇年二月一〇日、その著書『古事記及日本書紀の研究』が皇国を冒涜するものとして発禁処分になった津田左右吉である。この筆禍事件は津田にとって以上に、日本の古代史にとっての痛恨事であった。というのも、津田を弾圧した勢力が依拠した皇国史観は大東亜戦争の精神的支柱でもあったために、その無残な敗戦によって、戦争を遂行した者は悪であり、戦争に抵抗し弾圧された者は正義とされた戦後の風潮の中で、記・紀に対する津田の論理や方法が十分に検証されることなく、古代史学の権威に祭り上げられてしまったからである。そればかりか、津田の記・紀批判を一層すすめることが学問の進歩であるとするイデオロギーにまでなっていく[01]。

戦後間もない一九四七年に刊行された『日本上代史の研究』において、津田は「上代史研究の方法として最も基礎的なことは、史料としての文献の綿密なる検討と批判でなければならぬ」[02}という。これには何ら問題ないのだが、続いて「それは記紀を取扱ふ場合に於いて最も必要である」として展開される記・紀批判は、ほとんど説得力のないものである。津田は以下の六点を挙げている[03](要約)。

@大部分が記録の形ではなくして説話の形をとっている。
A編述の時代と説話中の事件の間には長い年月の隔たりがある。
B古事には異伝がはなはだ多い。
C記紀は共に漢字・漢文で記されており、シナ思想化されている。
D特殊な知識社会の手になったもので、朝廷を本位として説かれている。
E書紀においては、まだ暦のなかった時代にシナの暦法で年月が記されている。

津田は、こうした記・紀の記述に対して、「それによつて歴史的事件を知らうとするには、何等かの学問的方法によつてそれを処理することが必要である」と主張する。これはまっとうな意見であるが、その次に津田がやったことと言えば、伝承されたものを「説話」と「伝説」に分け、前者は空想の産物であり、後者は歴史的事実を含むものであるとして、@の批判を導くのである。六世紀以前の記・紀の記述に「綿密な検討」をほどこすこともなく、その史料性を「説話」あるいは「説話的」の一言で否定してしまうのだから、滅茶苦茶である。

津田の文章には、いかにも学問的な言辞を弄しながら、やたらに長くて分かりにくい推論や仮定を重ねて読者の目をくらましながら、最後に強引に自説を強調するという詐欺的な手法が至るところに見られる。こうした津田を批判して、滝川政次郎が「その文献批判は微に入り細を穿ち、非常に科学的な外観を呈していますが、皇室の権威を降ろしてやろうという一つの成り心を以て臨んでいるところに、非常に非科学的なものがある」[04]というのもうなずけよう。こんな「学問的方法」で民族の大切な伝承を台無しにされてしまってはかなわない。記・紀の記述を恣意的に「説話」とか「伝説」とか決めるのではなく、きちっとした検証がすむまで括弧に入れておくべきであろう。

Aは同時代の記録しか信用しない立場からの批判である。確かに同時代の記録の類は歴史を叙述するにあたって第一級の史料であるが、そうしたものが少ない古代史では遠い時代の伝承からいかにして史実を汲み出してくるかということが重要になる。ところが、津田史学を受け継いだ戦後の歴史学は、六世紀以前の記・紀の記述を作為されたもの、「机上の創作」として否定し、それによって真っ白になった古代を「同時代の記録」である中国史料や考古学資料で埋めようとするのである。これは古代史の一つの方法ではある。しかし、古代史の全体像を捕らえるには不十分である。遠い異国の記述や遺物だけでは、どうしても隔靴掻痒の感を免れない。

@Aにおいて、津田が「説話」としているものは歴代天皇の事績の伝承や歌物語の類(旧辞的記事)を指すものと思われるが、歴代天皇の御名、宮、后妃、皇子女、陵墓などの帝紀的記事についても同様に否定されている。後者は決して「説話」ではないのだから、奇妙なことと言わなければならない。津田の説を受けて、井上光貞は『日本古代国家の研究』において「古事記や日本書紀が、過去のある時代について何事かを述べている時、その述べられていることの大半は、その時代の歴史事実と認めるわけにはいかないのである。そこには帝紀の記載のなかから、史実を探りだすということは原則として絶望的である」とするが、そのすぐあとに「帝紀の信憑性」について書き、『宋書』に記された「倭の五王」に対応する仁徳(履中)・反正・允恭・安康・雄略の実在を認め、「仁徳または履中以降の天皇は明らかに実在と認められるから、帝紀のそれ以後の部分は架空の造作ではなくて、よりどころがあったとみざるを得ないのである」[05]という。これでは支離滅裂である。

Bの事実は、記・紀のいい加減さを示すものではなく、多くの異説を採録している『日本書紀』では、その編者が異説を恣意的に取捨選択しなかったことを示している。むしろ、記述の信頼性を高めるものと言わねばならない(筆者の紀年解読も記・紀が伝える異説の検証によって初めて可能になったのである)。にもかかわらず、津田は、異説を排除し、歴代王朝に都合のよい歴史を正史として編纂した中国史書を高く評価するのである。

C固有の文字を持たなかった日本人が異国の文字を借りてまで何とか自国の歴史を著わそうとした努力を、このように切り捨ててしまっては身も蓋もあるまい。漢字・漢文で書かれているから史料たりえないというなら、日本の古代から近世に至るほとんどの文献史料は信じられないということになってしまう。

D近世に至るまで、文字を操れるのは特殊な知識社会人に限られていた。彼らの手になった文献を否定して歴史が叙述できるわけがない。さらに、朝廷中心の歴史だから信じられないというなら、中華思想の顕著な中国の歴史書も信じられないことになる。

Eこの批判は当然である。『日本書紀』は、安康三年以降に元嘉暦(宋の何承天がつくり四四五年から施行)を使い[06]、それ以前に儀鳳暦(唐の李淳風がつくり六六五年から施行)を使っている。初めて我が国に伝わった暦は元嘉暦で、正式には欽明十五年(五五四)に百済から暦博士が来日したおりであろうが、帰化人などを通じて一部には以前から使われていた可能性もある。我が国にまだ暦が到来していない安康天皇以前に『日本書紀』編纂当時に使われていた儀鳳暦が使われているのだから、『日本書紀』を編年体の史書とするために書紀編者が新たに紀年を創作したことは明らかである。しかも、その紀年は時代がさかのぼるに連れて著しく延長されている。さらに継体天皇以前の『日本書紀』紀年と『古事記』崩年干支が全く合わず、中国史料とも合わない。こうしたことから、紀年への疑念は早く江戸時代から指摘されていたのである。

記・紀の史料性への疑念は、つまるところ六世紀以前の年代が信じられないということに尽きるだろう。それが記・紀の記述を否定する重要な論拠になっているのである。


紀年解読のための新たな試み

『日本書紀』には、神武天皇が東征に発った甲寅年(西暦前六六七)から持統天皇が譲位する持統十一年(六九七)まで年代が付されている。これが紀年である。一方、『古事記』にも最古の写本である真福寺本に、第十代崇神天皇から第三十三代推古天皇に至る二十四代のうち十五代の天皇の崩御年が干支で記されている。これが崩年干支である。この他にも六代の天皇について治世年数が記されている。[表1]は、記・紀に見える崩年干支・治世年数・宝算(天皇の寿命)の一覧である。なお、『日本書紀』の「太歳干支」は即位元年を示すもので、『古事記』の括弧内の数字は戦後の歴史学が推算している年代比定である。

こうして比べてみると、記・紀の崩年干支が全く合わないことが分かるだろう。ただし、安閑天皇以降になると、敏達天皇の崩御年が一年違うことを除いて概ね合致している。用明・崇峻・推古天皇の治世年数の違いは、越年称元法と当年称元法の違いによって生じたものであろう。当年称元法は数え年と同じで先帝崩御=即位の年を治世元年とするもので、早くからこうした数え方があったと思われる。それに対して、越年称元法は先帝崩御=即位の翌年を治世元年とするもので、公式には欽明十五年に百済から暦博士が来日したおりに伝えられたものであろう。敏達天皇以降の治世年数の違いは、従来の当年称元法によるか新しい越年称元法によるか定まっていなかったためと考えてよかろう。問題は継体天皇以前ということになる。ただし、第九代開化天皇以前は『古事記』崩年干支を欠いているので、比較の対象とはならない。

記・紀の記す年代が食い違っていることに対して、本居宣長は次のように言う。

何れも其ノ干支年月、皆書紀に記せると異なり、たヾ下巻の最末に至りてのは、書紀と合へり、若シいたく後ノ世の人の所為ならむには、必ス書紀の年紀に依リてこそ記すべきに、彼ノ紀と同じからざるは、必ス他古書に拠ありてのことヽ見えたればなり[07]。

宣長は記・紀が伝える干支年が別個の史料に拠ったものであるとする一方、『日本書紀』は後の世の「からごころ漢意」による潤色・虚飾に満ちたものであり、それに対して『古事記』は古伝承をそのまま記したものであり、上代の真実を伝えるものであるとした[08]。こうした宣長の見解を受けて、明治中期に盛んに論戦が行なわれた紀年論では、一見して年数の延長が疑われる『日本書紀』紀年を『古事記』崩年干支で訂正しようという実証的な試みが、修史局の星野恒や管政友、さらに那珂通世らによって推し進められていく[09]。それは戦後の歴史学にも受け継がれ、崇神崩年=戊寅年=三一八年とするのが定説になっている[10]。しかし、それとても中国史書が伝える「倭の五王」の遣使記事とは年代が合わないために、記・紀の六世紀以前の記述を「机上の創作」として否定する恰好の論拠とされたのである。

確実な同時代の史料のみによって我が国の古代史を構成しようとすれば、六世紀以前を空白にして、そこを外国史料や考古学資料で埋めていくしかない。だが、一九七八年に一一五文字の銘文が発見された埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣や『宋書』の遣使記事から雄略天皇の実在が明らかなように、六世紀以前の記・紀の記述には大切な史実が数多く含まれているのである。それを、同時代の記録でないからとして一概に否定してしまうのは、いかにも安易な方法であり、厳密な学問的態度とは言えまい。肝心なことは、虚実ないまぜになっている記・紀の伝承から、いかにして史実をより分けるかということである。

戦後間もない一九四八に刊行された三品彰英の『増補上世年紀考』は、学的な厳密さと深い洞察を随所に交えながら宣長以来の紀年論の展開と今後の展望を語っている。三品は、

代数を以て信頼すべき史実を語るものなりとして、治世年数の非史実性をを反証し、それを合理的な年数にまで引き下げようとするのが紀年延長説の共通する立場である。[11]

として、紀年論における天皇の代数と治世年数の取り扱いを次の三つの立場に分類する。

(一)代数と治世年数を共に信用して書紀の伝へをそのまヽに肯定せんとする立場
(二)二者何れかを信用し、それによつて他を否定乃至訂正せんとする立場
(三) 二者共に信用し難しとし、以て他に資料を探求する立場

紀年論が本格化する以前は(一)の立場、それ以降の紀年延長説は(二)の立場である。それに対して、三品は(三)の立場を将来において展開すべき一つの方向ではあるまいかと示唆する。これが戦後の歴史学の方法である。しかし、三品は次のような方法の可能性についても言及している。

第一の立場と第三の立場は全く正反対である。先づ前者は代数及び治世年数を共に信用するものであり、甚だ非科学的な見解のやうであるが、しかしそこに充分な学問的反省が加へられ、書紀の伝へる紀元なるものの意義が新しく考へられた後であるならば、一つの学問的見解として成立する可能性があらう。[12]

これに加えて、三品は次のように言う。

吾々は書紀が使用してゐる資料より外に豊富な史料を所持してゐるわけではないのであるから、書紀の資料によつて書紀を主として批判するより外はない。その様な方法で論考を進めるに当つて、吾々のなすべき最初の基礎的な仕事は、書紀の記事を編纂以前の史料の形に復原することでなくてはならぬ。[13]

こうした三品彰英の示唆に基づいて推し進めたのが、筆者の紀年解読の試みである。それにあたっては、記・紀が伝える天皇の代数・治世年数を前提とし、これを安易に改変しないこととした。さらに複数の作業仮説を導入して、記・紀編纂のおり紀年の拠り所となった原史料を復元する。ここで復元される原史料というのは、印欧比較言語学において同一系統の諸言語を比較して様々な変化を矛盾なく説明できる共通祖語を復元するのと同じく、記・紀が伝える崩年干支・治世年数・宝算など[表1]の数字を合理的に説明できるものでなくてはならない。こうして復元された紀年の原史料を実年代に比定し、それを確実な同時代の史料、たとえば中国史書や金石文などによって検証したとき、それらと何ら矛盾を来たさないものであれば、復元した原史料、ならびに、それを導き出した前提や作業仮説の正当性も検証されたことになるであろう。


原史料復元のための作業仮説
紀年の原史料復元を進めるにあたっては次の四つの作業仮説を使った。

[一]『古事記』崩年干支と『日本書紀』紀年には共通の原史料がある。
[二]原史料の治世年数は即位年と崩年を含む当年称元法に拠っている。
[三]紀年延長には累積年(越年称元法)・春秋年・虚構年が使われている。
[四]紀年的世界の枠組と開化天皇以前の紀年は讖緯思想に拠っている。

簡単に説明を加えておこう。

[一]記・紀が伝える天皇の代数と治世年数を信頼するという「前提」と[一]がなければ、紀年解読そのものが成り立たない。同じ原史料から『古事記』崩年干支と『日本書紀』紀年の相違が生まれたのは、原史料の解釈・編集思想の違いに加えて、用いた史料の多寡もあずかっていたと考えられる。

[二]当年称元法は年齢の数え方(数え年)と同じで即位の年を治世元年とするもので、古い治世年数の数え方であったと思われる。『古事記』が崩年干支しか示していないのは「先帝崩御の年=即位の年」と考えていたからで、これは原史料の当年称元法を伝えているのであろう。ただし、武烈天皇〜継体天皇のような場合は、この限りではない。前者の崩御が十二月八日であり、仁徳皇統の断絶によって皇位継承がもつれた挙句、翌年二月四日に応神天皇五世孫の継体天皇が即位したとする継体紀の記述は、これが皇統の変更を伴なう重大事であっただけに、詳しい日にちはともかく、武烈天皇が崩御した翌年早々に継体天皇が即位したという伝承は確かであろう。こうした場合は崩御年と即位年が同一年内で重複しないので、当年称元法と越年称元法の治世年数は同じになる。越年称元法が百済より伝えられたと思われる欽明朝以降は二つの称元法が混用されている可能性も否定できない。また、継体天皇以降は記録も増えてくるので、当年称元法を越年称元法に変えても紀年を一年延ばすということはできなかったであろうし、また、その必要もなかったと思われる。

[三]この仮説は山本武夫が『日本書紀』の紀年解読において試み[14]、画期的な成果を収めたが、『古事記』崩年干支との比較を欠いたために仁徳天皇以前の紀年解読を誤ってしまった。『日本書紀』は越年称元法で一貫しており、編者は当年称元法で伝えられていた原史料の治世年数から一年を減じないまま越年称元法に変えたと思われる[15]。この手法によって、『日本書紀』は天皇の代替りごとに紀年を一年引き伸ばしたのである。

春秋年(暦)は我が国に元嘉暦が渡来する以前に使われていたと考えられる。これは春分・秋分のころの満月の日をもって「年の初め」とするもので、「魏志倭人伝」に見える裴松之注に「魏略に曰く、其の俗正歳四節を知らず、但、春耕秋収を計って年紀となすのみ」[16]とあるのは、三世紀ごろの我が国の春秋暦のありさまを述べたものであろう。太陰暦が導入されて以降、春と秋の「年の初め」の儀式は次第に正月と盆(七月)の行事に吸収されていった。民俗学者の柳田國男は「盆と正月とは春秋の彼岸と同様に、古くは一年に二度の時祭」[17]であったと言っている。春秋年の豊富な例は記・紀に見えている古代天皇の宝算である。そのいずれも四五歳から一六八歳であるから、一年に二回歳を取ったと考えれば、合理的な数値であろう。こうした考えは、すでに明治十三年にイギリス人ウィリアム・ブラムゼンが表明している[18]。『日本書紀』は安康三年以降に元嘉暦を使っているので、それ以前の紀年には春秋年(暦)が使われていたと思われる。

神功皇后以前では、紀年を延長するための虚構年の可能性をつねに考えておかなければならない。ここで虚構年というのは、記・紀の編者が百済史書や中国史書の干支の比定を古くしたものをいうが、それも全くの創作というのではなく春秋年で伝承されていた宝算などを参考にしたためであろう。そうしたもののひとつに、神功皇后摂政五十二年から六十九年までの一八年間(これに累積年によって増える一年を加えると一九年になる)がある。神功皇后摂政五十一年条に「朕がい存けらむ時の如くに、敦く恩恵を加へよ」[19]とあり、これは前後の事情を勘案すれば皇后の遺詔としか考えられないことから、この年に皇后は崩御したと思われる。本来、この虚構年は応神天皇の治世年数に加えるべきものである。ただし、累積年による一年を加えた一九年は全て外交史料で埋められており、ここは春秋年ではなく太陽年と考えなければならないから、原史料復元に当たって注意を要する。

[四]紀年の原史料復元が可能なのは比較史料のある崇神崩年=戊寅年までである。開化天皇以前は『古事記』に見られるように宝算の古伝承しかなかったと思われる。『日本書紀』の開化天皇以前の紀年は『古事記』宝算のような古伝承を基にして讖緯思想で作為したものであろう。神武天皇の辛酉年(紀元前六六〇)即位も讖緯思想に拠ったものである[20]。


原史料の復元
原史料の復元をするにあたって重要なのは、基点をどこに置くかということである。推古天皇崩年=戊子年(六二八)は記・紀共に一致している。さらにさかのぼって安閑天皇崩年=乙卯年(五三五)も一致しており、安閑〜推古間の足掛け九四年に問題はなく、治世年数の違いも称元法の違いで説明できるので、ここでは継体天皇以前を対象にしたい。なお、敏達天皇の崩年が記・紀で一年違っているが、これは次の用明天皇の治世年数が当年称元法で三年であったのを、『日本書紀』は一年減じて越年称元法に改めているのに対し、『古事記』は当年称元法の三年を越年称元法による三年と誤ったためであろう。『日本書紀』がこの方法を紀年延長のために使うのは継体天皇以前である。ただし、先にも述べたように、武烈〜継体の皇位継承は同一年内に行なわれなかったので、実際に使われるのは武烈天皇以前ということになる。

紀年解読のための基点としては、すでに山本武夫が実践している継体天皇十七年(五二三)が相応しいであろう。この年は百済の武寧王薨年に当たり、成立の事情を全く異にする三つの史料がぴたりと一致するからである。

『日本書紀』継体紀 「(継体)十七年(癸卯=五二三)夏五月、百済王武寧薨」
『三国史記』百済本紀「(武寧)二十三年(癸卯=五二三)夏五月、王薨、諡曰武寧」
[武寧王墓誌銘] 「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戎朔七日壬辰崩」

継体天皇十七年=五二三年は確かな基点と考えてよかろう。ただし、そこから紀年解読を始めるには、記・紀において継体天皇崩年が四年も違っていることを解明しておかなければならない。

これについては原史料にあったと思われる継体紀の「丁未、天皇崩于磐余玉穂宮」という記事を、『古事記』編者は「丁未の年(五二七年)」と取ったのに対し、『日本書紀』編者は辛亥の年(五三一年)の二月の「丁未の日(七日)」と解釈したのであろう。そうとしか考えられない。というのも、『古事記』編者は継体天皇の治世年数を『日本書紀』と同じく二五年と考えているからである[21]。『古事記』では反正崩年〜継体崩年間は足掛け九一年となっており、これは『日本書紀』の治世年数において、継体天皇の治世年数を二五年とし、越年称元法の数字をそのまま当年称元法に改め、安康以前に使われている春秋年を太陽年(=二春秋年)に改めた場合の反正崩年〜継体崩年間の九二年と一年しか違わない。この場合、『日本書紀』は反正天皇の後に一年(春秋年、ただし太陽年を装っている)の空位を置いており、それに対して当年称元法を原則とする『古事記』は崩年=即位年と考えているので、原史料の段階では記・紀の年数は一致していたはずである。つまり、継体崩年を誤って四年繰り上げてしまった『古事記』編者は允恭天皇の治世年数を四年減じることで辻褄を合わせたのである。允恭〜反正間は『古事記』が太陽年を春秋年に切り替えるところなので、余計にややこしくなっている。

継体天皇十七年=五二三年を基点とする原史料の復元過程は非常に複雑になるので、詳しくは筆者の『紀年を解読する』(ミネルヴァ書房)を参照していただきたい。[表2]が、その結果である。

紀年の原史料復元に当たって最も苦労したのは応神天皇の宝算である。『日本書紀』によれば、応神天皇は仲哀天皇が二月五日に崩御してから十ヶ月あまり後の十二月十四日に生まれたことになっている。日にちについては信用できないが、「十ヶ月あまり後」というのは、このあたりの紀年が本来は春秋年にもかかわらず、太陽年のように装っているからで、原史料では仲哀天皇崩御の翌年に応神天皇が生まれたとなっていたはずである。『古事記』では仲哀崩年〜応神崩年は足掛け九三年になる(戦後の歴史学の西暦比定が足掛け三三年になっているのは、『日本書紀』編者の思惑に乗って干支で表記されているので太陽年と錯覚したからで、実際は春秋年だから、もう一巡した六〇年後の干支になる)ので、仲哀崩御の翌年に誕生したなら、応神の宝算は九二歳である。一方、『日本書紀』では、応神天皇は神功摂政元年には二歳になっているはずなので、先に述べたように神功皇后の治世は五一年、それに応神の治世四一年を加えれば、応神天皇の宝算は九三歳になる。ところが、『日本書紀』は越年称元法によって神功皇后から応神天皇への代替りに紀年を一年延長しているので、これを減ずれば、ぴたり九二歳になる。もちろん、この歳は春秋年である。これは、ほんの一例に過ぎないが、一見すると無関係のような記・紀の数値が先に挙げたような作業仮説を導入することによって見事に一致するのである。

応神天皇の宝算が九二歳であるというのは、何らかのかたちで原史料に存在していたと思われる。『日本書紀』はこの数字に神功紀の虚構年一八年を加えて一一〇歳としたのである。その一方で、『古事記』は応神天皇の宝算を一三〇歳としている。九二歳より三八歳も多い。これは神功紀の虚構年に越年称元法による一年の延長を加えた一九年(太陽年)を春秋年に換算したものに等しい。太陽年を装った神功紀の一九年(春秋年で三八年)の延長はもともと応神天皇の治世年数に数えるべきもので、応神天皇の治世年数は七九年(春秋年)ということになる。また、仲哀崩年=壬戌年から仁徳崩年=丁卯年までの一八六年(春秋年)が変わらないとすれば、仁徳天皇の治世年数は三八年減らして四九年(春秋年)としなければならない。この推算の正否は復元した原史料を実年代に比定したものを確実な同時代の史料で検証することによって確かめられるであろう。

ここで、紀年の原史料を復元する過程で明らかになったことを簡単にまとめておこう。紙数の関係で触れられなかったことも多いので、詳しくは前掲の拙著を参照されたい。

○最初に崇神天皇〜反正天皇の崩年干支がまとめられたと思われるが、継体天皇以前の干支は実年代を示すのではなく、紀年的世界の年数を表わす符丁に過ぎない。継体天皇以降は何らかの記録に拠ったのであろう。
○累積年(越年称元法)による一年の延長は武烈天皇以前において使われている(紀)。
○太陽年が使われているのは、紀では安康三年=雄略即位年まで、記では反正崩年までである。それ以前は春秋年が使われている。ただし、年齢などでは、紀では継体・安閑・宣化天皇の宝算まで、記では雄略天皇の宝算あたりまで部分的に使われている。
○原史料において神功皇后の摂政が五一年(春秋年)であったことは、応神天皇の宝算の検証から明らかである。仲哀天皇の治世は七年、成務天皇〜崇神天皇は九八年となる。いずれも春秋年である。
○成務天皇と反正天皇の次にある一年の空位年は皇位継承が同一年内になかったことを示す符丁である。この場合、記では空位年後になる次代の即位年が当代の崩年となる。

記・紀において年代の延長は[図1]のようになされたと考えられる。


原史料の実年代への比定と検証
復元した紀年の原史料を実年代に比定すると、[表3]のようになる。「はつくにしらす御肇国天皇」と称された崇神天皇の崩年は二九〇年である。これを確実な史料とされる同時代の記録や金石文、さらに史料性はやや劣るが『三国史記』の百済本紀・新羅本紀などの記述と対照したのが[表4]である。『日本書紀』の記事は、崩御や即位など主要な国内記事の他は外交関係の記事を干支年によって配置した。継体紀以前の『日本書紀』は百済三書(百済記・百済新撰・百済本記)や中国史書(魏書・晋書)を引用し、延長した紀年に外交史料にあった干支だけを合わせて嵌め込んだために歴史の脈絡が断たれ、ひどく分かりにくくなっている。しかし、筆者が新たに解読した紀年と照合してみれば、深い関係にあった彼我の歴史が鮮やかに見えてくるだろう。

まず、江戸時代から古代史家を悩まし続けた「倭の五王」について検証してみ[22]よう。この比定によれば、『晋書』『宋書』に見えている一一件の遣使記事は「倭王世子興」に問題が残るものの、全て通説の讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、武=雄略に適合している。しかも、いずれの遣使も即位後間もなくして派遣されており、唯一即位一六年後に派遣している雄略天皇の場合、その上表文において遣使の遅れた理由をくだくだしく述べて謝罪しているのである。このことは、雄略以前の倭王の遣使が即位直後になされたことを物語っている。何よりも、治世年数がわずか足掛け三年しかない反正天皇の遣使がぴたりと合っていることは、ここで進めてきた紀年解読の確かさを実証していると言えよう。

四六〇年一二月の倭国王遣使、四六二年三月の倭王世子興遣使については、四六〇年一月に允恭天皇が崩御し、四六一年一一月に雄略天皇が即位するまでの二年足らずの間に、木梨軽太子の失脚、安康天皇即位・崩御、市辺押磐皇子の謀殺、雄略天皇即位と、めまぐるしく変転するので、『宋書』が伝えるように興が倭王の世子ならば木梨軽太子もしくは市辺押磐皇子の可能性が高く、興が雄略天皇の兄とする説を採れば木梨軽太子か安康天皇ということになる。いずれか定めがたいが、これは当時の激変する政治状況を勘案すれば、むしろ比定の確かさを示すものと言えよう。

倭の五王の最初の遣使になる四一三年の晋遣使は、応神紀の応神三十七年(丙寅)に見えている阿知使主・都加使主を呉に遣わしたとする記事に対応するものであろう。これは二六六年の倭女王の遣使以来一四七年ぶりの遣使であったために道も分からず、高句麗の導きによって何とか呉に到着している。阿知使主父子の来朝は応神二十年(己酉)に見えているが、これは干支を二運繰り下げた四〇九年のことと思われるので、阿知使主父子の遣使は仁徳天皇即位後、おそらく四一二年の前半(春年)のことと思われる。応神紀にあるように丙寅年とすれば四二六年のこととなり、これでは応神紀の記事と整合しないからである(ただし、『日本書紀』編者は遣使の四年後の庚午年に阿知使主の帰還を伝えており、これは仁徳五十八年つまり庚午年に「呉国・高句麗がそろって朝貢した」とする記事に対応するので、四三〇年の遣使と紛れている可能性はある)。おそらく、応神天皇の時代に高句麗と激しく戦った倭国は仁徳天皇の時代になって高句麗との和平政策を取るために阿知使主父子を高句麗に使わしたのであろうが、その年、広開土王が没し、子の長寿王が即位して晋遣使を送ることになったので、それに便乗するかたちで晋に赴いたと思われる。阿知使主の帰還は四年後(太陽年)であり、これは仁徳十二年に高句麗が鉄の盾と的を貢上したとする記事に対応する。このとき、高句麗との一応の講和が成立したのであろう。

以上のことは仁徳天皇の治世を四九年(春秋年)とすることによって適切なものになる。また、仁徳天皇の初めに三年間課役を免除したとする有名な伝承も、応神天皇治世下における絶え間のない海外遠征に加え、その崩御後、巨大な応神天皇陵を築造したために国民が困窮していたことを伝えるものであろう。この「三年の課役」は秋の収穫に基づくものであろうから、太陽年と考えられる。『日本書紀』編者もこのことを知っていたらしく、仁徳天皇四年に課役の免除を宣告してから三年後(春秋年、ただし太陽年を装っている)に、天皇が高殿より遠望すると民のかまどから煙が多く立っていたにもかかわらず、天皇は課役の免除をさらに三年(春秋年、同前)のばしている。都合六春秋年である。太陽年だと三年、つまり三回の課役を免除したことになる。仁徳天皇の治世を四九年とすれば見事に符合するが、『日本書紀』が伝えるような八七年の治世では全く訳の分からない話になってしまうのである。なお、応神崩御後の三年の空位も太陽年であり、実際は六春秋年ということになる。

応神天皇の治世を七九年(春秋年)とすれば、その即位は三六八年の前半(春年)となる。この年は神功皇后が摂政五一年(春秋年)で崩御した年でもある。これを検証できるのは石上神宮の禁足地から出土した七支(枝)刀の銘文である。それによれば、泰和四年(三六九)に百済王世子(のち貴須王)が倭王旨のために造ったと記されている。倭王旨は応神天皇であろう[23]。三六九年といえば、百済は南下政策を取る高句麗との戦争を間近にしていたときであるから、百済王世子(貴須)が倭国との同盟関係を確認し、あわせて応神天皇の即位を祝うために「七子鏡」や「種種の重宝」と共に贈ったのであろう。『日本書紀』はこの記事を神功摂政五二年のこととしているが、このときすでに神功皇后が崩御しているとすれば話の辻褄は合うことになる。

応神天皇は神功皇后の遺詔「如朕存時、敦加恩恵」を受けて百済と厚く結び、高句麗の南下に対抗する。肖古王・貴須王亡きあとは百済の王位継承にも干渉し、やがて広開土王と長く激しい戦いを演じる。広開土王碑文は王の功績を誇張している可能性はあるが、倭国が劣勢であったことは否定できまい。その間、戦乱の地を避けて弓月君の一族が倭国に新天地を求めて渡来している。四〇四年、帯方郡にまで進出した倭国軍は潰敗、さらなる決戦を控えた四〇七年、応神天皇が崩御する。応神天皇が後継者と定めたのは対高句麗強硬論者であった菟道稚郎子である。しかし、最後の決戦に倭国は敗れたらしい。菟道稚郎子と仁徳天皇が三年間(太陽年)も皇位を譲り合ったというのは儒教的粉飾で、和平を主張する仁徳天皇と善後策をめぐって紛糾していたのであろう。

神功皇后についての記・紀の記述は、摂政以前の新羅征討と崩御前の百済との通好記事が主になっている。後者は甲子年に百済の肖古王が卓淳国を通じて倭国に通好を願ってきたことに始まる。神功紀の紀年を春秋年とすれば甲子年は神功摂政四十四年に当たり、紀年と見事に一致する。百済との通好の始まりが甲子年(三六四)であったとするのは、何らかの干支の史料があったのであろう。百済が倭国に通好を願ったのは、『三国史記』が伝える三六四年の「倭兵大至」の記事と関係があったかもしれない。『日本書紀』は神功皇后が二度新羅を攻めたとしている。一方、『三国史記』新羅本紀にも神功摂政期間に二度の倭兵侵攻を伝えている。四世紀の新羅本紀の紀年には問題がある[24]ものの、彼我の一致には注目すべきであろう。

仲哀天皇以前になると、検証すべき確実な史料がない。ただし、二、三の傍証はあるので、それに触れておこう。

崇神天皇〜成務天皇間は九八年(春秋年)である。この間、大和朝廷は倭王武の上表文に「東征毛人、五十五国、西服衆夷、六十六国」とある国家統一の過程であった。記・紀はそれを景行天皇の事績として伝えているが、景行天皇十二年から十九年にかけて挙行された九州遠征は、高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼし、半島が政治的に動揺していたことと無関係ではあるまい。

崇神天皇の崩年=戊寅年=二九〇年(春年)は、箸墓古墳・西殿塚古墳に次いで古いとされる崇神天皇陵[25]の築造された時代と矛盾しない。「魏志倭人伝」は倭国の王について「其の国、本亦男子を以って王と為し」[26]と記しているが、この場合の「其の国」は倭国を指し、倭国の王が男王・女王・男王と代わったことを述べている。卑弥呼・壱余と女王が続いた後、再び男王になったというのであるが、陳寿が「魏志倭人伝」を編纂したのが太康年間(二八〇〜二八九)とされているので、崇神天皇の崩年が二九〇年ならば「魏志倭人伝」編纂の時代に倭国王が男王であったことと適合する。


むすび
駆け足の検証ではあったが、記・紀が伝える歴代天皇の代数と治世年数を前提に、四つの作業仮説を導入して行なった紀年解読の結果は、同時代の確実な記録とされる中国史料や金石文などと矛盾しない、というよりも見事に適合したと言ってよかろう。これによって、初めに掲げた前提と作業仮説の正当性も確かめられたのではなかろうか。この解読作業を通して、『日本書紀』の編者がどのようにして紀年的世界をつくりあげたか明らかになったと思う。また、編纂の史料となった百済三書などから引用した記事の干支を春秋年などで延長された紀年に嵌め込んだために、前後の脈絡が分からなくなってしまった歴史的事件、ことに外交関係が生き生きと蘇えってきたであろう。

紀年解読によって、第十代崇神天皇から第十八代反正天皇までの歴史が最初にまとめられた可能性が高まってきた。この期間は治世年数・宝算共に春秋年で一貫しているからである。おそらく、それは、ハツクニシラス天皇に始まる倭国統一過程を物語る歴史であっただろう。このとき帝紀・旧辞の核になるものがつくられたに違いない。

そうしたものが必要になったのは、反正天皇(珍)が四三八年の遣使において、自ら「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」を称し、除正を要求したにもかかわらず、「安東将軍・倭国王」にしか除せられなかったことから、自らの要求の正当性を証拠づける歴史が必要になったのであろう。四五一年の済、四七八年の武には百済を加羅に変えて珍以来の要求が認められている。武の上表文に、

昔より祖禰躬ら甲冑を?き、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。[27]

と誇らしげに書いてあるのが、その要点であろう。この文章を書いたのは雄略天皇に寵愛されたふみひと史部の身狭村主青と檜隈民使博徳であろう。雄略天皇二年(紀年解読によれば四六二年)十月にはふみひとべ史戸が置かれたとあるので、このころに編纂事業が進められたのかもしれない。そのおり、治世年数を春秋年で示す符丁として干支を使ったのであろう。

黛弘道は応神天皇の五世孫とされる継体天皇の系譜が途中で不明になっていることの考察から、帝紀・旧辞について「現存の『古事記』に即して考えれば、反正以前をまずまとめ、ついで、允恭ないし顕宗のころ(五世紀の中・末期)までを付加し」、「仁賢以降については、その後かなり機械的に断片的な系譜的事実を付加していっただけ」と主張している[28]。この見解は筆者の紀年解読の結果ともよく合致しており、津田左右吉が『古事記』に物語のあるのは顕宗までだからとして帝紀・旧辞の成立を欽明朝(六世紀半ば)とする根拠薄弱な説[29]を信奉してきた戦後の歴史学の迷妄は、改められなければならない。紀年の延長を根拠にして六世紀以前の記・紀の記述を否定することも、考え直さなければならない。さらに、明治の紀年論争以来深く信頼されてきた『古事記』崩年干支が実年代を示すのではないことも、ここで確認しておきたい。





表1  記・紀の崩年干支・治世年数・宝算

     古 事 記         日    本    書    紀
天皇 崩年干支(西暦) 治世 宝算 太歳干支(西暦) 崩年干支(西暦) 治世(空位) 宝算








神武
綏靖
安寧
懿徳
孝昭
孝安
孝霊
孝元
開花
           137
 45
 49
 45
 93
123
106
 57
 63
[辛酉](BC660)
  庚辰(BC581)
*癸丑(BC548)
  辛卯(BC510)
  丙寅(BC475)
  己丑(BC392)
  辛未(BC290)
  丁亥(BC214)
*甲申(BC157)
 丙子(BC585)
 壬子(BC549)
 庚寅(BC511)
 甲子(BC477)
 戊子(BC393)
 庚午(BC291)
 丙戌(BC215)
 癸未(BC158)
 癸未(BC98)
 76(3)
 33
 38
 34(1)
 83
 102
 76
 57
 60
  127
   84
   57
 #77
#114
#137
#128
#116
  115 
10
11
12
13
14

15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
崇神
垂仁
景行
成務
仲哀
神功
応神
仁徳
履中
反正
允恭
安康
雄略
清寧
顕宗
仁賢
武烈
継体
 戊寅(318)


 乙卯(355)
 壬戌(362)

 甲午(394)
 丁卯(427)
 壬申(432)
 丁丑(437)
 甲午(454)

 己巳(489)
 



 丁未(527)















 8

 8
168
153
137
 95
 52
100
130
 83
 64
 60
 78
 56
124

 38


 43
  甲申(BC97)
  壬辰(BC29)
  辛未(71)
  辛未(131)
  壬申(192)
  辛巳(201)
  庚寅(270)
  癸酉(313)
  庚子(400)
  丙子(406)
  壬子(412)
*甲午(454)
*丁酉(457)
  庚申(480)
  乙丑(485)
  戊辰(488)
*己卯(499)
  丁亥(507)
 辛卯(BC30)
 庚午(70)
 庚午(130)
 庚午(190)
 庚辰(200)
 己丑(269)
 庚午(310)
 己亥(399)
 乙巳(405)
 庚戌(410)
 癸巳(453)
 丙申(456)
 己未(479)
 甲子(484)
 丁卯(487)
 戊寅(498)
 丙戌(506)
 辛亥(531)
  68
  99
  60
  60(1)
   9
  69
  41(2)
  87
   6
   5(1)
  42
   3
  23
   5
   3
  11
   8
  25(2)  
 120
 140
 106
 107
  52
 100
 110
 
  70
  
 若干


 若干



  82
27
28
29
30
31
32
33
安閑
宣化
欽明
敏達
用明
崇峻
推古
 乙卯(535)
 

 甲辰(584)
 丁未(587)
 壬子(592)
 戊子(628)



14
 3
 4
37
      甲寅(534)
*丙辰(536)
*庚申(540)
  壬辰(572)
*丙午(586)
*戊申(588)
*癸丑(593)
 乙卯(535)
 己未(539)
 辛卯(571)
 乙巳(585)
 丁未(587)
 壬子(592)
 戊子(628)
   2
   4
  32
  14
   2
   5
  36
  70
  73
 若干



  75

太歳干支は即位元年を示す。ただし、神武の太歳干支は甲寅年(BC667)で、これは東征進発の年に
当たる。*は太歳の前年即位を、#は記事からの推算年齢を示す。応神・継体後の空位年は崩御年を
含めれば3年になる。「古事記」崩年干支の西暦比定は戦後の歴史学による。



表2  復元した原史料(当年称元法による)

天皇 崩年干支 治世年数(空位)
10
11
12
13
14

15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
崇神
垂仁
景行
成務
仲哀
神功
応神
仁徳
履中
反正
允恭
安康
雄略
清寧
顕宗
仁賢
武烈
継体
安閑
宣化
欽明
敏達
用明
崇峻
推古
#戊寅
#(壬子)
#(辛亥)
#乙卯]
#壬戌
#(甲寅)
#(壬申)
#丁卯
#壬申
#(丙子)]
 庚子
 辛丑
 己亥
 丁卯
 己巳
 己卯
 丙戌]
 辛亥
 乙卯
 己未
 辛卯]
 乙巳
 丁未
 壬子
 戊子
(*12)
 *35
 *60
  *5
  *7(*1)
 *51
 *79(*6)
 *49
  *6
  *3
   21
    2
   23
    5
    3
   11
    8
   25(2)
    2
    5
   33
   14
    3
    6
    37

#は符丁としての干支を示し、カッコ内は
「古事記」崩年干支を訂正・付加したもの。
*は春秋年を示す。允恭以降は太陽年で
ある。崩年干支後にある]は皇位継承が
同一年内に重複していないことを示す。




表3  訂正歴代崩年干支

天皇 崩年干支(西暦)
10
11
12
13
14

15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
崇神
垂仁
景行
成務
仲哀
神功
応神
仁徳
履中
反正
允恭
安康
雄略
清寧
顕宗
仁賢
武烈
継体
安閑
宣化
欽明
敏達
用明
崇峻
推古
 庚戌(290)
 丁卯(307)
 丙申(336)
 戊戌(338)
 壬寅(342)
 戊辰(368)
 丁未(407)
 甲戌(434)
 丁丑(437)
 己卯(439)
 庚子(460)
 辛丑(461)
 癸亥(483)
 丁卯(487)
 己巳(489)
 己卯(499)
 丙戌(506)
 辛亥(531)
 乙卯(535)
 己未(539)
 辛卯(571)
 乙巳(585)
 丁未(587)
 壬子(592)
 戊子(628)




表4 紀年解読(年代は当年称元法による。*は春秋年を示す)「工事中」

訂正紀年 代・天皇・年代      日  本  書  紀              検   証   史   料         
(284秋) 10崇神 1* 男弟、御間城入彦五十瓊殖命即位か(崇神=ハツ
クニシラススメラミコト)





引用文献

[01]直木孝次郎『日本神話と古代国家』<三、『記・紀』批判と津田史学>講談社学術文庫(1990)
[02]津田左右吉『日本上代史の研究』「付録一上代史の研究方法について」<三、史料の取扱ひかた>岩波書店(1947)
[03]前掲書
[04]滝川政次郎「津田史学の終焉と津田学徒の責任──稲荷山古墳発見の鉄剣銘の解
読──」『古代文化』34巻8号
[05]井上光貞『日本古代国家の研究』岩波書店(1965)
[06]これを明らかにしたのは小川清彦の功績である。小川の論文「日本書紀の暦日に就いて」は戦前の一九四〇年に完成していたが、時局柄、発表を控え、戦後の一九四六年に謄写印刷で出版された。論文は内田正男編著『閣出版(日本書紀暦日原典』雄山1978)に収められている。
岸俊男「古代の画期雄略朝からの展望」『古代の日本』6、中公文庫(1996)所収
[07]本居宣長『古事記伝』二十三之巻 吉川弘文館(1902)
[08]前掲書一之巻
[09]那珂通世「日本上古年代考」『文』第一巻八号(1888)、これに対する星野恒の「回答」『文』第一巻十三号(1888)、管政友「古事記年紀考」『史学雑誌』第十七号(1891)、那珂「上世年紀考」『史学雑誌』第八編第八・九・十・十二号(1897)など、これらの論文は辻善之助編『日本紀年論纂』東海書房(1947)に収められている。
[10]和田萃『体系日本の歴史』2 小学館(1988)
[11]三品彰英『増補上世年紀考』<第三編、紀年新考>養徳社(1948)
[12]前掲書
[13]前掲書
[14]山本武夫『日本書紀の新年代解読』学生社(1979)
[15]笠井倭人「上代紀年に関する新研究」『史林』第三六巻第四号(1953)
[16]和田清・石原道博編訳『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波文庫(1951)
[17]柳田國男「先祖の話」『定本柳田國男集』第十巻 筑摩書房(1962)
[18]安本美典『邪馬台国ハンドブック』講談社(1987)
[19]岩波古典文学大系『日本書紀』上<神功皇后摂政五十一年条>(1967)
[20]伴信友「日本紀年暦考」『伴信友全集』巻四「比古婆衣」所収 ぺりかん社(1977)
[21]高城修三『紀年を解読する』ミネルヴァ書房(2000)16ページ<継体の治世は何年か>を参照。
[22]以下いちいち明示しないが、倭の五王の遣使記事については和田清・石原道博編訳の前掲書による。
[23]栗原朋信「七支刀の銘文についての一解釈」『日本歴史』第二一六号(1966)所収
[24]那珂通世「上世年紀考」『増補上世年紀考』所収
[25]河上邦彦「崇神天皇の陵墓は行燈山古墳か」『別冊歴史読本・古代天皇家の謎』新人物往来社(1993)所収
[26]和田清・石原道博編訳の前掲書
[27]前掲書
[28]黛弘道「記・紀」『古代の日本』9研究史料 角川書店(1971)所収
[29]津田左右吉『日本古典の研究』上<第一編・第四章「記紀の由来、性質、及び二書の差異>岩波書店(1948)